2018.2. 11.
詩編110:1〜7、 マルコによる福音書12:35〜37

「王を超える王」

    きょうの聖書の箇所に出てまいります「メシアはダビデの子だ」というのはどういうことでしょうか。「メシア」とはヘブル語で「油注がれた者」という意味です。新約聖書の原文の言葉であるギリシャ語では「キリスト」です。旧約聖書の時代には、祭司や王は油を注がれて任命を受けていました。時代が下るにつれて次第にこの言葉は、「救い主」を表す称号として使われるようになりました。旧約聖書では、複数の箇所でダビデ王の子孫からメシア・救い主が生まれると記されております。ダビデ王は、ユダヤの王の中で最も偉大な王、理想的な王と見なされていました。そのダビデ王の子孫から救い主が出ると考えられ、長い間待望されていたのです。ユダヤの国は、外国の強国によってしばしば占領され、国を奪われてきました。主イエスがいらっしゃった時代もローマ帝国の支配の下にありました。ユダヤ人たちは、外国の支配から解放してくれる「メシア・キリスト・救い主」が現れて欲しいと強く望み、その出現を信じていたのです。律法学者たちは、主イエスはダビデの正統な子孫ではないと考えていました。マリアは聖霊によって主を身ごもりましたが、世間の人はそれを理解することが出来ず、イエスは不義密通の子だと考えていた人たちも多くいたのです。律法学者たちは、イエスはダビデの正統の子孫ではないから、イエスは救い主・メシア・キリストではないと主張していたのです。主イエスはそこで詩編を引用して、ダビデ自身が救い主を自分の子と呼んでいるのではなく、自分の主と呼んでいるのだから、単純にメシア救い主は、ダビデの子孫であるかどうかということで判断してはいけないのだということ、人間が自分の判断でもってある人を救い主であるかどうかということを決めていいはずはないということを言おうとなさっているのです。「救い主メシアはダビデの子だ」ということを基準にして、人に対して「あなたはその基準を満たしていないからあなたは救い主ではない」と言っていると主イエスは、律法学者たちを非難なさっているのです。人間の側で、この人は救い主かどうかということを判断することが許されるのであれば、人間が救い主よりも上になってしまいます。このことは律法学者だけが犯していた過ちなのでしょうか。私たちも同じようなことをしてしまっているのではないでしょうか。私たちは、自分の祈ったとおりのことをかなえてくださる御方を、本当の神だと判断して、自分の欲望や期待を基準にしてどういう御方を救い主(メシア・キリスト)とするかということを判定しているということがないでしょうか。もしそのように人間の側の基準によって判断されるような御方なら、私たちをどうしようもなく深い罪から救ってくださることはできないでしょう。人間の力や知恵によって判定されるような御方がそもそもそのようなことができるはずもないのです。私たちは自分の基準によって救い主を判定するなどという道を離れて、ひたすら主の前にひれ伏し、礼拝をお献げすることによってこそ、神の言にしっかりと聴くことができ、私たちがどのようなときにあっても主が共にいて救いの御手を差し伸べていてくださるということを見つめることができるのです。

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