2018.2. 18.
詩編33:1〜22、 マルコによる福音書12:38〜44

「神はすべてをご覧になる」

     きょう聴いてまいります聖書の箇所の最初に、主イエスは、「律法学者に気をつけなさい」と言われます。律法学者というものは、人前で偽善的なことをしている。彼らは人の目を気にして、人に重んじられ、尊敬を受けることばかり考えているとおっしゃいます。しかし、このことは律法学者だけの問題ではないということなのです。主が、「気をつけなさい」とおっしゃったのは、律法学者たちを非難するためだけでおっしゃったのではなく、38節に「教えの中でこう言われた」とありますように、「群衆」に対して(37節)、わたしたちに対して、「あなたたちも律法学者のようになるな」とおっしゃったのです。わたしたちは、多くの場合に人の目を気にして行動してしまいます。他人の評価が気になります。本来ならば、人の目や人の評価など気にしないで、隠れたところからわたしたちを見ていてくださる神様の目をこそ気にして行動すべきなのです。きょう聴いております聖書の後半の箇所である41節から、人の目や評価を気にしないで行動した一人の女性が登場いたします。彼女は律法学者とは対照的です。神殿の中で賽銭箱に自分の生活費の全部を入れたのです。その額はほんのわずかの額でした。金持ちたちの入れた額に比べれば、比べものにならないほどはるかに少ない額でした。しかし主イエスは、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」とおっしゃったのです。彼女は、レプトン銅貨二枚を入れたとありますから、自分の生活費としてレプトン銅貨二枚のうちの一枚を自分の手元に置いておくこともできたはずでした。生活に不安があるならばそうするのが普通に考えられることです。しかし、彼女はそうすることをせずにすべてを献げたのです。それは自分自身を献げることに他なりません。自分自身をそのまま委ねたのです。それは彼女の信仰の決断とも言えることだったでしょう。主イエスは、そのことを見抜かれたのです。彼女の献金は本当にわずかなものでした。他の人が見たら冷たい目でみられるということもあったでしょう。しかし、献金の額がたとえほんのわずかなものでも、人の目を気にすることなく、信仰の決断をもって彼女はすべてを神に献げたのです。問題は献金の額ではないのです。わたしたちもまた彼女の生き方に習うようにと招かれています。わたしたちは、神がわたしたちのことを愛のまなざしで見ていてくださるということを信じることによってその招きに応えることができるのです。きょう一緒に聴きました詩編33篇の13節から15節には次のようにあります。「主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり/御座を置かれた所から/地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる」。主なる神様が天からわたしたちの一人一人を愛のまなざしで見つめてくださっているのです。この神様のまなざしの中で、16節以下が語られていきます。「王の勝利は兵の数によらず/勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず/兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に」。神様の愛のまなざしが注がれている中で、兵の数や力の強さ、馬の数など、目に見えることを超えて、「主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」を神は顧みてくださるということがここで歌われております。そのことを信じて歩むときに、わたしたちは人の目や評価を気にすることから解放されて、自由になって、神様にすべてをお委ねして生きていくことが出来る者へと変えられていくのです。そのことに希望を持って祈りつつ歩んでまいりましょう。

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