2018.3.25.
詩編88:1〜19、 マルコによる福音書15:42〜47

「死と向き合う希望」

 きょうの聖書のところでは、主イエスが墓に葬られたことが語られております。主が葬られたところとは、いかなるところでしょうか。そこは、暗闇の世界です。希望の光が射さない、真っ暗闇の絶望の世界です。主は死なれ、その絶望の暗闇の世界に身を置かれたのです。それは、きょう共に読んでおります詩編88篇のなかにある絶望と重なるものがあるのです。「あなたは地の底の穴にわたしを置かれます/影に閉ざされた所、暗闇の地に。」(7節)。「あなたの憤りがわたしを圧倒し/あなたを恐れてわたしは滅びます。」(17節)。「愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(19節)。先週わたしたちは、主イエスがいまわの際に叫ばれた「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びが絶望の叫びだったということを御言葉から聴きました。そして、主は十字架の上で神への信頼の中で死なれたというように主の死の意味をとらえてしまうと、主の十字架が、「わたしたちは主にならって神に信頼して、罪ある自分自身を乗り越えて行きましょう」というような教訓話のようにされてしまう、わたしたちをとらえている罪の力というものはそんなに生易しいものではないのだと申しました。主は、わたしたちを取り巻く、罪の暗闇、罪がもたらす絶望ということをその身に負われて死なれたのだ、その上で復活なさってわたしたちの罪が赦され、救いが与えられたのだと申しました。きょうのところではそのことの意味がより徹底した形で深められています。主が、死なれただけでなく、葬られたということは、希望の光がまったく見出せない真っ暗闇の絶望の世界に身を置かれたということが明白に示されたということを意味します。わたしたちもいずれは必ず死んで行きます。ひとりの例外もなく死んで行きます。この冷厳な事実を日頃わたしたちはなるべく見ないように、考えないようにしています。人間が死ということによって限界づけられるようになり、死の力にとらえられるようになったのは、人間がエデンの園で神の戒めに反して罪を犯したからです。そして、人間が罪を犯したことにより、人間は神中心ではなく、人間中心に生きるようになり、お互いを愛し合うのではなく、憎しみ合い、傷つけ合うようになってしまいました。それは罪ゆえの苦しみです。この世では、多くの人が戦争や紛争で殺され、傷つけられたり、差別や迫害を受けています。「この世は真っ暗闇」のように見えます。わたしたち自身の身の上にもとても悲しい出来事が起こったり、災難にみまわれたりすると、いったいどこに希望の光があるのだろうかと思うときがあります。しかし、「光は暗闇の中で輝いている」のです(ヨハネによる福音書1章5節)。わたしたちの目に光が見えないのは、わたしたちの目が曇らされているからです。信仰の目が神によって開かれるようにいつも祈らなければなりません。その光は、主がその死の絶望の底から復活させられることによってこの世に差し込んで来たのです。 主が死の絶望の底に身を置かれ、復活されることによって、人間を深くとらえていた罪の力、死の力が打ち破られ、暗闇の中にいるわたしたちに救いの光が差し込んで来たのです。主の復活によって、わたしたちは、死んだあと復活と永遠の命に生きる希望が与えられたのです。主が葬られた墓が、そのまま復活の場となりましたが、そのことはいずれは死んで葬られるわたしたちにとって、死んでも復活と永遠の命に生きる希望が与えられたということを意味するのです。そして、過去において死んで葬られた人々にも同じように復活と永遠の命に生きる希望が与えられるということをも意味するのです。

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