2018.4.29.
イザヤ書46:1〜4、 テサロニケの信徒への手紙一 1:8〜10

「救い主を待ち望む」

「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来たるべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」(10節)

 先週わたしたちは、テサロニケ教会の人たちの信仰の有様が、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったということ、すなわち今のギリシャのあらゆる地方に響き渡ったということを聖書から知りました。それでは、彼らのどのような信仰の有様が響き渡ったというのでしょうか。そのことの中身が9節から10節に語られています。その中で大切なことは、彼らが「どのように偶像から離れて生けるまことの神に仕えるようになったかということ」と「どのようにして主イエス・キリストが再びこの世に来られるのを彼らが待ち望むようになったか」ということのふたつでした。当時テサロニケの都市は交通の要衝であり、かなりの規模の都市でした。そこでは多くの偶像が祀られ、多くの神々が拝まれておりました。そのような中でテサロニケ教会の人たちは、迫害に遭いながらも、偶像を捨てて生けるまことの神に仕えるようになったのです。彼らはなぜそのようなことができたのでしょうか。それは、先週も見ましたように、神によって聖霊の力を注がれて、喜びをもって御言葉を受け入れ、主に倣う者となるように神によって変えられていったからです。御言葉が彼らの中で出来事となり、神への信仰が与えられ、神を喜び、喜びをもって神に仕えて生きる者へと変えられていったからでした。そこには、パウロたちの努力とパウロたちを受け入れたテサロニケ教会の人たちの熱意もあったのですが、何よりも神の力によることでした。彼らは偶像に囲まれておりました。何かの願い事をするには、この神あの神と願い事の種類によって拝む神が異なっておりました。そのような状況はこの日本という国に生きるわたしたちも同じです。テサロニケ教会の人たちと同じように、わたしたちもまた信仰の闘いの中に置かれているのです。日本の中にも多くの偶像がありますが、偶像はわたしたち人間が造り出したものであり、わたしたちの願望や欲望を反映したものに過ぎません。一方わたしたちが信じる神は、生けるまことの神です。それはどのような御方なのでしょうか。それは、きょう一緒に読みますイザヤ書46章1節から4節の御言葉にありますように、わたしたちを「老いる日まで、担い、背負い、救い出して」くださる御方だということです。神は、わたしたちの救いのために生きて働いてくださっている御方であられるのです。死んだ偶像ではなく、わたしたちを担い、背負い、救ってくださる御方なのです。そのことは、神が愛する御子イエス・キリストをこの世にお遣わしくださり、わたしたちの罪を赦してくださるために十字架にかけられ、復活させてくださったことによって証明されています。それほどまでにこの取るに足りないわたしたちを愛してくださっているのです。しかし、わたしたちは、うれしく、喜ばしいときだけでなく苦しみの中にも置かれております。わたしたちは、現実には多くの罪を犯し、人間関係の苦しみ、病の苦しみなど様々な苦しみの中に置かれています。そのような中で、神の救いはどこにあるのかと疑問を抱き、目に見えるものだけにすがってしまいたいときもあります。しかし、神はすべてを御手の中に置いていてくださり、わたしたちを救いのご計画の中に入れてくださっております。わたしたちには、いまわたしたちが抱えている苦しみの理由は明らかにされてはおりませんけれども、主が再び天から来られる日が必ず到来し、「わたしたちの目の涙を神がぬぐい取ってくださり、もはや死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネ黙示録21章4節)日が必ずやってきます。その日が救いの完成される日です。そのときわたしたちに復活のからだが与えられ、永遠の命にあずかることができるのです。テサロニケ教会の人たちは、福音の力によって、その日が来ることを確信し、待ち望むことができました。わたしたちもまた生けるまことの神に喜びをもって礼拝をお献げし、喜びをもってお仕えし、主が再び来られる日を待ち望むことができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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