2018.5.13.
詩編17:1〜15、 テサロニケの信徒への手紙一 2:5〜12

「我が子のように」

  わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。(8節)

 パウロは、伝道者として、神の使徒としてテサロニケの町で働き、テサロニケの教会をつくりました。テサロニケの教会は、パウロたちの伝道によってつくられました。彼らが伝道の仕事を一生懸命にしたのは、自分たちの誉れを得ようとしたり、お金をもうけるためではありませんでした。当時は、巡回宣教者といって、人々の前で耳触りの良い言葉を語っておカネを稼いでいた人たちがおり、パウロたちもそのような者たちではないかと疑われていたほどでした。パウロは、わたしたちはそのような者たちではないと主張いたします。彼は、誉れも、人間からの賞賛もおカネも求めないと言います。そして、キリストの使徒としての権威を主張することもできるのにしないとも語ります。キリストの権威を主張して、人々の上に立とうとし、人々を屈服させようとはしない、むしろ幼な子のように力の無い、弱い者として神の力に寄りすがっているということを主張したかったのです。それは、わたしたちキリスト者にも求められていることです。わたしたちは、自分の力を誇るのではなく、神の力にお委ねしていく信仰の姿勢が求められているのです。神はわたしたちのそのような姿勢を何よりもお喜びになるのです。わたしたち人間は、エデンの園の出来事以来、自分も神のようになろうとし、神の力に頼ることをやめ、自分で自分を救おうとする者となってしまいました。そのことが聖書で考える罪ということですが、その罪によって神と人間との正しい関係は損なわれてしまいました。それ以来、人間は自分中心の生き方をするようになり、神を憎み、隣人を憎むようになり、隣人同士憎み合い、傷つけ合うようになってしまいました。そのような人間に対して、驚くべきことに、神の側から手を差し伸べてくださり、神と人間との関係を正しいものに回復し、わたしたちの罪を赦し、救いを与えてくださるために、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけ、復活させるという誠に大いなる救いの御業をなしてくださったのです。愛する御子イエス・キリストは、そのためにこの世に来てくださり、へりくだって、低くなられて、十字架の上で大きな、筆舌に尽くしがたい苦しみを負われ、死なれ、復活なさいました。わたしたちは、キリスト者としてその御方の御後に従っていくことが求められています。パウロは身をもってそのことをテサロニケ教会の人々に示しました。パウロは、「自分の命さえ与えたいと願」うほどに彼らを愛し、伝道のために「労苦と骨折り」を惜しみませんでした。しかし、彼らは、自分自身のそのような行いを誇ることをしませんでした。彼らは自分を見つめるのではなく、主イエスをこそ見つめ、主にお従いしていくことをひたすらに求めていたのです。わたしたちもまた、主イエスを見つめ、主の御後にお従いしていくことが求められていますが、弱いわたしたちが自分の力だけでできるものではありません。それは、父親が我が子に対してするように、愛情をもって「神の御心にそって、歩むように励まし、慰め、強く勧めて」くださる御方、主イエス・キリストのお力によることなのです。わたしたちはその主イエス・キリスト信じることによって神の救いにあずかることができるのです。そして、わたしたちに対して神の救いにあずからせようと、神はわたしたちを招いておられます。わたしたちはその神の招きにお応えして、キリストによる救いの恵みにあずかることを求めて、礼拝中心の信仰生活を送ることができるように祈り求めて行きたいのです。

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