2018.5.27.
詩編119:105〜112、 テサロニケの信徒への手紙一 2:13〜16

「神の言葉を聞いて信じる」

このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。(13節)

 使徒パウロは、13節で「神に感謝しています」と述べておりますが、その感謝の内容は何でしょうか。それは、同じ13節にありますようにパウロたちから神の言葉を聞いたとき、テサロニケ教会の人たちが、それを人の言葉として聞いたのではなく、神の言葉として受け入れたということです。「パウロたちから聞いた神の言葉」とは、なんでしょうか。それはパウロたちの説教のことです。「説教が神の言葉として聞かれる」ということは、そう簡単なことではありません。パウロとて人間としての罪深さを持っています。人間は誰でも皆罪人です。その罪人のひとりであるパウロが語った説教が、神の言葉として聞かれるということは、5節に語られたことと関連しています。5節に、「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」とありますように、神の力と聖霊の力と語る者の強い確信とがなければ、説教は、神の言葉として聞かれることはないのです。人間の語る説教が神の言葉として聞かれるということは、奇跡なのです。人間の力によることではないのです。それでは、ここで言われている「神の言葉」とは具体的にはどういう内容の言葉なのでしょうか。それは、1章9節から10節の箇所で述べられております。そこには、主イエス・キリストが、十字架にかかられ復活なさったこと、そのことがわたしたちの罪が赦されるためであったこと、そして、罪にまみれ、神の怒りの下にあるわたしたち人間の救いの完成のために、その主が再びこの世に来られるということが語られています。テサロニケ教会の人たちは、パウロの説教によってそのことを聞き、それを神の言葉として信じ、受け入れ、主イエス・キリストに従う者たちとなったのです。さらに2章13節にもありますように、その神の言葉がそれを信じるテサロニケ教会の人たちの中に現に働いているとパウロは述べます。それは、主が信じる者の中で生きて働いてくださり、主との交わりの中に生きる者としてくださるということなのです。それでは、そのように主の交わりの中に生きる者の歩みとはどのようなものなのでしょうか。それは苦しみの中にあっても絶望に陥ることなく歩むということです。キリストを信じて生きることによって、全ての苦しみから解放されるということはありません。キリストを信じて生きるようになっても苦しみは続きます。キリストを信じて生きることによって、背負う苦しみもあります。キリスト教信者が圧倒的に少ないこの国において、偶像に取り囲まれて様々な誘惑があり、困難を覚えることが多くあります。江戸時代におけるような命の危機を伴うようほどの迫害はないかもしれませんが、キリスト者であることによって受ける困難や苦しみも少なからずあるのです。しかし、キリストを信じて生きることによって新たにわかることがあります。それは、わたしたちが背負う苦しみは、復活の主が共に担ってくださるのだということです。マタイによる福音書11章28節から30節にあります神の言葉に聴きましょう。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 主は、わたしたちの重荷を共に担ってくださる御方です。だからその「軛は負いやすく、その荷は軽い」のです。わたしたちの背負う荷は、ただ苦しいだけで終わる苦しみではありません。それは主の十字架につながっているのです。そしてさらにそれは復活へとつながってまいります。主は、わたしたちの救いのために、わたしたちが想像もできないほどの大きな苦しみを味わわれ、死に赴かれ復活を果たされました。天の父なる神様は、愛する御子イエス・キリストによってわたしたちへの愛を示されました。わたしたちは、その神の愛とキリストの苦しみを覚えて、この世を忍耐して歩み、終わりの日に完成される神の救い、すなわち復活による永遠の命を待ち望みつつ歩む者となれるようにされたいのです。

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