2021.7.25 主日礼拝
列王記下 第4章42〜44節

エフェソの信徒への手紙 第4章1〜6節

ヨハネによる福音書 第6章1〜15節

「命のパンに養われて生きる」

 主イエスは、イスラエルの各地で病人を癒したり、悪霊を追い出したりなさっていました。それを見た人たちが自分たちも救って欲しいと主イエスの許に押し寄せてきました。ここではその数が男たちだけで五千人だったとあります。男だけで五千人ですから、女性や子どもも含めればその数倍になったことでしょう。かなりの大群衆です。主はその人たちを見てとにかく何か食べるものを与えたいと思われました。弟子のフィリポは、「その人たちを満足させるためには、200デナリ(おそらく今の価値で言えば、200万円)ほどあっても足りないでしょう」と言いました。総勢二万人がそこにいたとすると、200万円なら一人あたり100円です。100円では、お腹一杯にはなりません。二万人の人たちを満腹させるためには2千万円以上がかかるでしょう。そんなおカネなどどこにあるのですかとフィリポは言いたかったのでしょう。それはもっともといえばもっともな話です。さらに別の弟子であるアンデレが「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言いました。これは、おそらく弟子たちと主イエスの会話を側で聞いていた少年が自分の持っている弁当を差し出したのでしょう。二万人の大群衆を前にして手持ちの食料がそんな程度ではとても間に合いません。「これは無理な話です」と弟子たちは言いたかったのでしょう。しかし、主イエスは、奇跡を起こされます。二万人の人たちに満腹するほどの食事をお与えになったのです。「大麦のパン五つと魚二匹」を増やして二万人の空腹を満たしてくださったのです。  主イエスは、群衆のためにパンと魚を満腹するまでお与えになりました。確かに人間は生きる上で、食べたり飲んだり、病気が癒され健康でいられることはとても大切なことです。それなしには生きていけません。しかし、主イエスは人間にとってそれだけではなく、生きる上でもっとも大切な事柄があるということをお教えになりたかったのです。それは「神の救い」です。神を信じ、神の救いを求めて生きることです。

 それでは神の救いは、どんなことに現されているのでしょうか。それは天の父なる神様が、愛する御子イエス・キリストにおいて示されています。「神の救いは、イエス・キリストにある」とはどういうことなのでしょうか。それは罪の赦しに関わることです。わたしたち人間は、アダムとエヴァがエデンの園で神から禁じられた知恵の木の実を食べて以来、神様中心の生き方から自分中心の生き方へと方向転換してしまいました。それまで人間は神の許で、神様に全面的に信頼して幸せに生きてきたのに、自分自身が神のようになろうとして、自分中心の生き方をするようになってしまいました。それを聖書では「罪」と呼びます。この罪が大きくなって人間はお互い同士、傷つけ合い、殺し合うまでになってしまいました。そのような罪を犯した人間は必ず罰せられなければなりません。その罰を、神様がわたしたちの代わりに愛する御子イエス・キリストに負わせ、十字架にかけ復活させることによってわたしたちの罪が赦されたのです。わたしたちの救いはその御子イエス・キリストを信じることにおいて実現するのです。それではキリストを信じるとはいかなることなのでしょうか。48節から51節をご覧ください。

48 わたしは命のパンである。49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 主イエス・キリストは「わたしは命のパンである」とおっしゃっています。そのパンを食べるならば、永遠の命が得られると主はおっしゃっています。「永遠の命が得られる」とはいかなることでしょうか。それは、主が再びこの世に来られる終わりの日に、わたしたちが復活させられ、永遠の命を与えられることですが、それだけでなく、「神様との永遠の愛のつながりをいただける」ということでもあります。それにあずかれるのが神の救いです。「キリストを信じる」とは、命のパンである主イエスをいただくこと、食べることです。主イエス・キリストをいただくとは、神の言葉であるキリストをいただくことです。キリストを信じることによって神の救いにあずかることができる。神の言葉をいただくこと、神の言葉を聴いて信じることによって救いの道が与えられるのです。永遠の命は、終わりの日に与えられるものということだけではなくいま与えられるのです。

   ところで、きょうの聖書箇所の「五千人の給食の話」は聖餐と関連するものと考えられてきました。聖餐式は、わたしたちの罪の赦しのために、十字架の上でキリストの肉が裂かれ、血が流されたことを覚え感謝する儀式です。わたしたちは、キリストの体であるパンをいただき、流された血であるブドウの液をいただくことにより、神の救いの確かさを具体的に覚えることができるのです。月に一度、聖餐式においてわたしたちは、命のパンであられるキリストの体をいただくことができるのです。毎週ごとの礼拝において、神の御言葉に聴き、聖餐式において目に見えるしるしとしてのキリストの体である聖餐のパンをいただいて、わたしたちは神様の救いの中に入れられているという確信を与えられて、主を信じ、主にお従いする者として歩みを新たにすることができるのです。そのことを信じて生きることができるようにいつも祈り求めてまいりましょう。

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