2021.8.15 主日礼拝
箴言 第9章1〜6節

エフェソの信徒への手紙 第5章6〜20節

ヨハネによる福音書 第6章52〜59節

「永遠の命にあずかる希望」

先月の25日の礼拝で、主イエスが5千人にパンと魚を与えて満足させたというところを読みました。その奇跡の後、群衆は主イエスのあとを追いかけました。主は彼らに対して、パンや魚などの朽ちる食べ物ではなく、朽ちない食べ物のために働きなさいとおっしゃいました。パンや魚ももちろん生きていく上では大切だけれども、あななたちには、命のパン、永遠の命に至る食べ物が大切であるとおっしゃったのです。

 きょうの聖書の箇所のまえのところで、主イエスを信じるとは、命のパンであるイエス・キリストを食べるということが記されてあります。主イエスを信じることが主イエスを食べるということに譬えられています。しかし、主イエスを信じるということについて、ヨハネによる福音書のきょうの箇所ではさらに突っ込んだ言い方がなされています。きょうの聖書のところで「食べる」という言葉が7回出てきます。その内54〜58節までギリシャ語の原典では特に「トゥローゴー」という言葉が4回も出てきます。この言葉は、同じ「食べる」でも、動物がものを食べるときにも使われ、かじる、むしゃむしゃ食べる、干し草などをかむ、という意味です。イエスというパンを食べるという意味は主イエスを信じるという意味ですが、きょうの聖書の箇所ではこのようにさらに生々しい言葉が使われています。それは主イエスをむしゃむしゃ食べるというニュアンスです。

 きょうの聖書の箇所は聖餐に関わりがあるところだと考えられております。わたしたちは聖餐の時パンとブドウの液をいただきます。このパンは主が十字架の上で裂かれた体を意味し、ブドウの液はキリストが十字架上で流された血を表しています。わたしたちはこれらにあずかることによって、わたしたちが神の命、永遠の命にあずかっていることを目に見える形で体で実感させられるのです。主イエス・キリストが、その体を釘打たれ、血を流されたのは、わたしたちに代わってのことでした。この十字架は、最も残酷な刑罰とされておりました。本来罰を受けなければならなかったのはわたしたち人間であったのに、主イエス・キリストはわたしたちのかわりに十字架刑という罰を受けてくださり死なれたのです。そして三日目に復活なさったのです。そのことによってわたしたちの罪が赦され、キリストを信じる者に対して、永遠の命に生きる約束が与えられたのです。

 聖餐においてパンとブドウの液をわたしたちが口でしっかりと食べ飲み、味わうという具体的な行為をすることによって、わたしたちに永遠の命に生きる希望が与えられていることが確信させられるのです。それは精神的なこと、頭の中での観念的なことではなく、実際にわたしたちが聖餐のパンとブドウ酒を具体的に口にすることによって、神の命に生きる希望と永遠の命に生きる希望が与えられているということが確実なこととして、覚えさせられるのです。

 主イエス・キリストを信じることによって、わたしたちは永遠の命をいただくことができます。神の愛の内に入れられて生きることができます。それはキリストがわたしたちの救いのために、十字架の上で肉を裂かれ血を流され、死なれ、三日目に復活なさったからです。その事実によってわたしたちは神の命に生き、永遠の命に生きる希望が与えられたのです。主イエスはわたしたちの救いのためにわたしたちが想像もできないほどの苦しみを受けられました。肉を裂かれ血を流されたのです。作家の三浦綾子さんがなにかに書いていたのですが、彼女は「聖餐の杯を受けるとき、わたしは隣人のためにこのさかずき一杯の血さえも流すことはできない」と書いていました。わたしたちは隣人のためにそのような少しの血さえ流すことはできないでしょう。主イエス・キリストはわたしたちのために、わたしたちの深い罪が赦されるために血を流され、大きな苦しみを味わい尽くされたのです。驚くべきことに、ハイデルベルク信仰問答の問79の答えは、わたしたちが、聖餐のパンとブドウの液を口にするときキリストが「聖霊のお働きによって、(わたしたちが)キリストのそのまことの体と血とにあずかっているということ。そして、あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということを、・・・・・わたしたちに確信させようとしておられるのです」と述べるのです。  このことは、わたしたちが聖餐にあずかることを通してキリストとひとつにされるということを示しています。キリストはわたしたちの救いのために、とてつもなく大きな苦しみを味わわれました。それは、天の父なる神様のご意志でした。主イエスは大きな不安と苦しみの中で父なる神様の御心に従順にお従いになったのです。これらがあたかもわたしたちがなしたことのようにみなしてくださるというのです。これはとても畏れ多いことです。そうなりますと、キリストが十字架で死なれ、復活なさったということがわたしたちにとって本当にとても密接なことのように思われます。キリストが十字架で死なれ復活されたことは、わたしたちにとっていかなる意味を持つのでしょうか。キリストの死と復活がわたしたちの人生といかなる形でつながるのでしょうか。それは洗礼において明らかに示されています。

   わたしたちは洗礼によって古い自分に死に、新しく生まれるのです(ローマの信徒への手紙5章5〜8節)。わたしたちはキリストを信じることによって、キリストという命のパンをいただくことによって、キリストとともに生きる永遠の命をいただくことができるのです。そのことが聖餐のパンとブドウ酒をいただくときにわたしたちは確信させられるのです。わたしたちはいかなる困難のときでも主を信じ、主をいただいて、永遠の命にあずかって希望をもって歩んで行けるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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