2021.9.5 主日礼拝
イザヤ書 第35章1〜10節

ヤコブの手紙 第2章1〜13節

マルコによる福音書 第7章31〜37節

「天を仰いで」

 きょう聴いてまいります聖書箇所の最初のところで、 主イエスは、異邦人の地を巡られてからガリラヤ湖に到着され、その主イエスの前に、耳が聞こえず口のきけない人が、人々に連れられて来たとあります。主イエスは各地で癒しの奇跡を行っておられましたので、その評判を聞いて、この地に大勢の人達が集まって来ていました。

 主イエスはその群衆の前からその人を連れだし一対一になられます。彼を群衆のいない所に連れ出したのです。彼を群衆の前から連れ出したのは、癒やしの業に集中するためでもあったことでしょう。主イエスがここで集中しておられることは何でしょうか。この難しい障がいを取り除くための複雑な呪文を正確に唱えるために集中しておられたのでしょうか。そうではありません。ここに「天を仰いで」とあります。それと同じ言葉は6章41節にもあります。そこには、主イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹させた奇跡が語られていますが、41節に「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」とあります。「天を仰ぐ」というのは祈りの姿勢です。つまり主イエスはきょうの箇所でも、祈りに集中しておられるのです。この癒しの業は、他の御業も皆そうですが、主イエスの魔術的な力によってなされるのではありません。主イエスと父なる神様との、祈りにおける密接な交わりの中でこそ行われるのです。主イエスはここで父なる神様との祈りに集中するために、天を仰いだのです。そして「深く息をつき」ともあります。この言葉は聖書の他の箇所では「うめく」とか「苦しみもだえる」と訳されている言葉です。この「深く息をつく、苦しみもだえる、うめく」は、人が罪と死の力に支配されている現実の中で、心の内でうめき苦しみつつ、そこからの救い、解放を待ち望んでいる、という様子を表す言葉なのです。主イエスは天を仰いで祈り、そのようなうめきの声を、耳が聞こえず舌の回らないこの人と共に、この人に代って、父なる神様に向かってあげてくださったのです。執り成しの祈りをささげてくださったのです。  この人の苦しみは、耳が聞こえず、そのために口が利けないことでした。それは、罪の力に捕えられ、支配されていることによる苦しみを象徴的に表しているということができます。罪の力が彼の耳を塞ぎ、聞こえなくしているのです。そのために口を利くこともできないのです。主イエスはご自分の指を彼の両耳に差し入れました。耳の穴をくり抜くようにして、塞がれている耳を開通させようとしておられるのです。主は、祈りにおいてうめきつつ、彼の耳を塞いでいる罪の力と戦い、彼を「聞く」ことのできる者にしようとしておられるのです。

 主イエスは、塞がれた耳を開くために、うめきをもって執り成して下さり、「エッファタ」と語りかけてくださいます。それは「開け」という意味であると聖書に記されています。しかし、もっと正確にその意味を捉えるなら、「開かれてあれ、解放されてあれ」ということなのです。それは、単に耳が開かれて聞こえるようになれというだけのことではなくて、この人の耳を塞いでいる罪の力、神様の御言葉に耳を閉ざし、自分に心地よい言葉しか聞こうとしない思いが打ち砕かれ、み言葉に対して開かれた者となる、耳を塞いでいる罪の力から解放される、ということです。主イエスは「エッファタ」という言葉によってそのことを告げ、実現してくださるのです。主イエスのこのお言葉によってこの人は「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」のです。

 主イエスのこの癒しの御業は、旧約聖書の箇所、イザヤ書35章の預言の成就です。ここには、神様から救い主、メシアによる救いが実現する時に起ることが語られています。その5、6節に「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる」とあります。この中の、「聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌う」ということがまさにきょうの聖書の箇所で実現したのです。つまり主イエス・キリストこそ、イザヤが預言した救い主メシアであることが、きょうのこの出来事によって示されているのです。

 この「耳が聞こえず舌の回らない人」は、主イエス・キリストによっていやされました。ひるがえってわたしたちはどうでしょうか。わたしたちは、いつも本当に聴くべきことを聴いているでしょうか。本当に語るべきことを語っているでしょうか。先ほども述べましたように、わたしたちは、自分に心地よい言葉、耳触りの良い言葉、つまり罪を指摘することなく、悔い改めを求めることもない、単なる人生訓のような言葉だけを聞こうとしており、わたしたちの耳は塞がれてしまっています。本当に聞くべき言葉を聞くことができていないのです。そのためにわたしたちは、本当に語るべき良い言葉を語ることができず、毒に満ちた言葉を語ってしまうのです。そのように、わたしたちは耳が聞こえず、それゆえに話すこともできないでいる者たちです。しかし、毎週の礼拝において、主イエスがわたしたちの耳を開いてくださり、主イエスの御言葉をわたしたちの心に響かせてさり、わたしたちの重い口を開いてくだるならば、わたしたちは主イエスの救いの恵みのすばらしさを讃美し、主イエスこそまことの神でありわたしの救い主ですとの信仰を告白することができるのです。そのことを中心にして歩む信仰生活こそが、神様が、愛する御子の十字架の犠牲によってわたしたちに開いてくださった、神様に救われて生きる道なのです。それは、失望することのない希望の道です。その救いの道を希望を持って歩むことができるように祈り求めてまいりましょう。

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