2021.9.19 主日礼拝
エレミヤ書 第11章18〜20節

ヤコブの手紙 第3章13〜4章10節

マルコによる福音書 第9章30節〜37節

「仕える者になりなさい」

 主イエスは、イスラエルの国の各地を弟子たちと旅をしておられました。あるとき弟子たちと共にカファルナウムという町に来て、ペトロか誰かの家に着いたとき、弟子たちに「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになりました。彼らは何も言えずに黙っていました。それは、彼らが途中で「誰が一番偉いか」と議論していたからです。おそらく、誰がいちばん主イエスに献身的にお従いしているのかというようなことを競って、互いに論じ合っていたのでしょう。その彼らに対して主は、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」とおっしゃいました。なぜ主はこのようなことをおっしゃったのでしょうか。主は弟子たちに対して「すべての人に対して謙遜になりなさい」との「謙遜の美徳」を説かれたのでしょうか。そうではないでしょう。主イエスはそのような人生訓や道徳を述べられたのではありません。それは36〜37節の御言葉から分かります。主は、弟子たちに「子どもを受け入れよ」とお命じになられました。それは、子どもの純真であること、無垢であるから、可愛いから受け入れなさいという意味でおっしゃったのではありません。当時子どもは、女性と同じく、社会では取るに足らない者、価値のないものとして、低く見られておりました。そして、そもそも子どもというものは、決して純真無垢なものではなく、自分よりも弱いものをいじめたりするという残忍さ、罪深さをも併せ持っています。可愛いだけではなく、扱いずらく、わがままで、傲慢な一面も持っています。その子どもを「わたしの(主イエスの)名のために受け入れなさい」とお命じになられるのです。可愛い、愛しいと思える存在を受け入れること、愛することは、誰にでもできることです。しかし、主は、わたしたちがどうも肌が合わない、好きになれない、一緒にいることができないと思われるような人をも受け入れよとお命じになられます。それは、とても難しいことではありますが、そのことこそが「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる」(35節)ようになるための実践なのだとおっしゃいます。それは、どうしてでしょうか。それは、自分が受け入れることができないと思われる人々の中に主イエスがおられるからです。それは、例えばマタイによる福音書25章にもあるとおりです(「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」《40節》)。わたしたちが受け入れることができないと思われるような人々の中に主イエス・キリストがおられ、主がそういう人々を通して私たちと出会ってくださっているのだ、だから、そういう人々を受け入れるということは、主イエスを受け入れ、父なる神を受け入れることになる(ヨハネによる福音書14章10節)のだということを主は、おっしゃりたかったのです。そしてさらに、「子どもを受け入れる」ということについて、考えを深めるならば、次のようなことも見えてくることでしょう。すなわち、「わたしの名のために」「わたしの名のゆえに(口語訳、新改訳聖書)」とは、その子どもの持つ価値によってではなく、主がその子どものためにも十字架にかかってくださった、そのことのゆえにということです。「十字架の救いの恵みのゆえに」ということです。主が十字架にかかってくださったのは、神に背き、罪深いわたしたちのためにということであり、わたしたちは、神にとって、本来ならば到底受け入れられないような存在であるにもかかわらず、神は大きな犠牲を払ってくださって、わたしたちの罪を赦してくださったのです。わたしたちを受け入れてくださっているのです。そのことを見つめるならば、わたしたちもまた、受け入れがたいと思えるような人々をも受け入れることができる道が与えられているということに気づくことができます。

 主イエス・キリストがこのようにわたしたちを受け入れ、罪を赦し、共に歩んでくださっている、その恵みを見つめるなら、誰が一番偉いかといがみ合い、主イエスと隣人とに仕えることにおいてすら人よりも先になろうとする弟子たちの、またわたしたちの姿はなんと醜いものでしょうか。主イエスの救いにあずかり、その弟子として生きるわたしたちに求められているのは、主イエスの御名のために、お互いを受け入れ合うことです。主イエスが十字架の死によってわたしたちを受け入れてくださり、しかもその恵みを、一人の子どもをやさしく抱き上げて祝福することによって示してくださったのですから、わたしたちも、そういう優しさ、なごやかさの中で、お互いを受け入れ合い、愛し合って生きたいのです。「すべての人の後になり、すべての人に仕える者となる」とはそういうことです。そこにこそ、本当の幸いがあります。わたしたちは心を低くして、お互いに赦し合い、受け入れ合って生きる者とされたいのです。

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