2021.10.17 主日礼拝
イザヤ書 第53章1〜12節

ヘブライ人への手紙 第4章14〜16節

マルコによる福音書 第10章35〜45節

「仕えるために来られた方」

 きょうの聖書箇所の最初に、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスのもとに来て、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願ったとあります。彼らが願ったのは、これから主イエスが勝利して栄光をお受けになり、全世界を支配なさる時に、自分たちを右と左に座らせてください、ということです。つまり主イエスが王座に着かれる時に、自分たちを位の一番高い側近として、右大臣、左大臣の地位を与えてくださいということです。彼らはそこで、他の弟子たちとの間の序列を考えています。主イエスのすぐ右と左の座を得る、それは他の弟子たちよりも高い地位、より栄光ある立場を得たいということです。このヤコブとヨハネに代表される弟子たちの思いは、私たちが信仰をもって生きようとする時に共通して抱く思いなのではないでしょうか。それは要するに救い主イエス・キリストの勝利と栄光にあずかりたい、という思いです。私たちが主イエス・キリストを信じて従っていくことの根本にある動機はこれなのではないでしょうか。信仰に入るきっかけや具体的な動機はそれぞれ皆違っています。そのきっかけや動機は様々ですが、しかし私たちが信仰を持って生きようと決心する時に必ず考えているのは、自分の人生を、日々の生活を、信仰によってより充実したもの、平安と慰めのあるものとしたい、あるいは暗い日々を明るくしたい、前向きな思いで生きたい、ということでしょう。つまり私たちは誰でも皆、広い意味で、主イエスの勝利と栄光にあずかりたいと願って信仰者になるのです。

 しかし、主イエスが弟子たちにお命じになったのは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」ということでした。ここで、注意すべきなのは、これは、皆に仕える者となり、すべての人の僕となる人こそが、一番高い地位に就くことができる、ということではないということです。つまりこのお言葉は、どうしたら人より偉くなれるか、いちばん上になれるか、ということを語っているのではなくて、むしろそのような思いを捨てて、仕える者、僕となりなさいと言っているのです。

 そしてこの教えの根拠、土台となっているのが45節です。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。主イエスご自身が、わたしたちによって仕えられるためではなくてむしろわたしたちに仕えてくださるために、十字架にかかって死ぬことによって、罪に捕えられ支配されているわたしたちを解放するための身代金としてご自分の命を献げてくださるために、この世に来てくださったのです。しかし間違えてはなりません。だからあなたがたも主イエスに倣って仕える者、人々の僕となりなさい、そうすれば救いにあずかることができる、と言っているのではありません。それだったら結局、誰が一番主イエスと同じように人々に仕えているか、僕となって生きているか、という話になっていき、やはりお互い同士競い合うようなことになります。そういうことではなくて、主イエスがわたしたちに仕えてくださるために十字架にかかって死んでくださったことによって、わたしたちは罪を赦され、主イエスの命という身代金によって罪の支配から解放された、その恵みの中で生きることが大切なのだということです。主イエスによるその救いの恵みは、わたしたちの努力や、苦しみをも耐え忍んで頑張って従って行く真面目さによって得られるのではありません。わたしたちは皆、どんなに威勢のいいことを言っていても結局、主イエスの飲む杯を飲むことができないし、主イエスの受ける十字架の洗礼を共に受けることのできない者たちです。そのような弟子たちとわたしたちのために、主イエスはお一人でその杯を飲み、その洗礼を受けてくださったのです。罪人であるわたしたちに仕え、わたしたちの罪が赦されるために身代金としてご自分の命を献げてくださったのです。わたしたちはその救いの恵みを、ただいただくことしかできません。そのことをしっかりと認めて、その恵みをいただくことが大切なのです。

 主イエスは39節でヤコブとヨハネに「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言っておられます。彼らも、他のどの弟子も、主イエスと共に十字架にかかることは出来ませんでした。主イエスはお一人で十字架にかかって死んでくださったのです。しかしこの主イエスの十字架の死と、父なる神様の力による復活によって、罪の赦しと新しい命という救いが、ただ神様の恵みによって与えられたのです。その救いの恵みをいただいたことによって彼らは、後に、主イエスが飲んでくださった杯を飲み、主イエスが受けてくださった洗礼を受ける者とされていったのです。つまり主イエスが仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げてくださったように、彼らも苦しみを背負って主イエスに従い、人々の僕となって仕え、人のために犠牲を負う者とされていったのです。それはもはや、そうすることによって主イエスの右と左の栄光にあずかるためではありません。40節に「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」とあります。主イエスに従って同じ苦しみを背負って歩んだからといって、それで主の右と左に座ることができるわけではありません。誰がどういう栄光を受けるかなどということはもはや問題ではないのです。私たちに仕えるために、わたしたちのための身代金としてご自分の命を献げるためにこの世に来てくださった主イエス・キリストが招いてくださり、主イエスと共に歩むことができることこそが、私たちの最大の喜びであって、その喜びの中でわたしたちは、皆に仕える者、すべての人の僕となっていくのです。そのことを確信して希望を持って歩んでまいりましょう。

                                 閉じる