2021.10.31 主日礼拝
申命記 第6章1〜9節

ヘブライ人への手紙 第7章23〜28節

マルコによる福音書 第12章28〜34節

「あなたは神の国から遠くない」

 主イエス・キリストは、きょうの聖書のところで、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と問われて、こうお答えになりました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

わたしたちはこの主イエスの言葉に従って、神様を愛し、隣人を愛して生きる。それ以外に、わたしたちの歩むべき道はありません。これこそがわたしたちの人生を導き、わたしたちの足下を照らし出してくれる光です。聖書のすべての教えは、この神様を愛し、隣人を愛するという所へとわたしたちを招いていく、あるいはこの神様を愛し、隣人を愛するということの具体的な展開としてあると言っても良いのでしょう。

 さて、このような第一の掟と第二の掟を聞いて、わたしたちはどう感じるでしょうか。すぐに「私には無理。」「私には出来ない。」そういう心の反応が引き起こされるのではないでしょうか。わたしは神様を愛する、愛したい。だけれど、いつでも、どこでも、何をしている時も、神様を第一にすることなんて出来ない。神様を忘れていることだって、しょっちゅうある。あるいは、隣人を愛したいと思うけれど、自分のようには愛せない。すべての人を愛するなんて無理だ。そんな風に思うのではないでしょうか。それが正直なわたしたちの心の動きでありましょう。

 ここで、主イエスの答えを聞いた律法学者に注目しましょう。32〜33節にありますように、「律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」とこの律法学者は言います。この人は、主イエスの答えが全く正しいことを知っています。そしてこの人は、この二つの掟に従うことは「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」とまで言うのです。しかし、何かが欠けています。この人は、この二つの掟が何よりも大切だということは知っている。しかし、知っているというところにとどまっているのです。知っているところにとどまっていますから、この掟を守れない自分に気付いていませんし、それが出来ないということに心を痛めてもいないのです。これが問題なのです。この律法学者は、このイエス様の答えに対して、「わたしもそのことは知っています。しかし、それが出来ないのです。どうすればよいのでしょうか。」そのように彼は、もう一歩突っ込んで主イエスに問うべきだったのです。そうすれば、主イエスは必ず、福音の核心に迫る答えを与えてくださったに違いありません。その答えとはなんでしょうか。それは「悔い改めて、わたしに従いなさい」ということであったのでしょう。  主イエスはここで、この律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない。」と言われました。「遠くない」という言い方は微妙です。主イエスはこの律法学者に対して、「あなたは神の国に入る。神の国にすでに居る」とは言われなかったのです。あなたは大切なところは知っている。頭では分かっている。しかし、それでは神の国に遠くないということではあっても、神の国に入ることはできないのです。なぜなら、自分はできる、できている、そう思っているのですから、悔い改めは起きず、主イエスに助けを求めることがないからです。これでは神の国に入ることはできません。いくら聖書を読んで、キリスト教の知識を増やしても、この律法学者と同じところ、「知っている」というところにとどまるならば、その人にとって神の国はどこまでも「遠くない」というところにとどまってしまうのです。そこから一歩、主イエスに向かって踏み出さなければなりません。それは、「主よ、憐れんでください。律法を全うできない、罪人であるわたしを憐れんでください。」というこの一歩です。この一歩を踏み出すなら、わたしたちは神の国に入ることが許されるのです。主イエスが神の国の門を開けてくださるからです。

 わたしたちに信仰が与えられたら、この二つの掟に代表される律法を完全に全うできるようになるのかと言えば、そんなことはありません。これを完全に全うされた方はイエス様だけです。わたしたちの中に、これを全うすることのできる力はありません。しかし、その主イエスがわたしたちに聖霊を注ぎ、わたしたちと一つになってくださり、この掟を全うすることができる歩みへと導き続けてくださいます。この聖霊なる神様のお働きの中で、わたしたちは変えられ続けていきます。わたしたちはそのことを信じてよいのです。

 悔い改めて、主イエスを信じ、愛する者とされた者は、すでに神の国に生き始めています。「遠くない」というのは、近くにあるけれど、方向は間違っていないけれど、神の国に入っていないということです。しかし、わたしたちはすでに神の国に入り、生き始めているのです。確かにまだ完成はされていません。ですから、この掟を全うできないこともしばしばです。けれど、すでにわたしたちは神様と共にあるのです。だから、ますます神様を愛し、人を愛する者とされていきたいと思うのです。

 神様を愛することは、神様に仕えることです。隣人を愛することとは、隣人に仕えることです。わたしたちは、ますます仕える者となり、謙遜な者とならせていただきたいと思うのです。大切なものは、知識ではなく愛なのです。知っているところにとどまることなく、悔い改めて、愛を注いでいただくことです。ますます愛する者とされるということなのです。わたしたちに神様の愛が、主イエスの愛が注がれ、その愛がわたしたちからあふれ出していくように、共に祈ってまいりましょう。

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