2021.11.7 主日礼拝
列王記上 第17章8〜16節

ヘブライ人への手紙 第9章23〜28節

マルコによる福音書 第12章38〜44節

「神はすべてをご覧になる」

きょうわたしたちに与えられておりますマルコによる福音書の御言葉において、主イエスが「律法学者に気をつけなさい」と注意を促した言葉と、貧しいやもめが献金を献げたことのふたつの話が記されております。

 初めの、律法学者に対しての話において記されていることは、人に見られている、人の目ばかり気にしている律法学者の生き方のことです。ここで主イエスは「律法学者に気をつけなさい」と言われたわけですが、これは律法学者だけの問題なのでしょうか。そうではありません。これはわたしたちをも含んでいる話です。律法学者というのは、当時のユダヤ社会において最も信仰深い人、人々を信仰の道へと導く人として尊敬されていた人たちです。そのように信仰深いと思われている人であっても、このような人の目を気にしてしまうということです。そういう誘惑に誰もがさらされているのだから、あなたがたも気をつけなさいということを主イエスは言おうとなさったのです。

 わたしたちの信仰の望ましいあり方は、すべてをご覧になる神の御前に生きるということです。しかし、神様は目に見えませんので、いつの間にかわたしたちは目に見えるものに心を引かれてしまいます。それは人々からの尊敬であったり、人々に重んじられることであったり、社会的地位であったり、あるいは富、財産であったりするわけです。わたしたちはいつの間にかそういう目に見えるものの誘惑に負けてしまいます。その結果、自分が人にどう見られているかという他人の評価ばかりを気にするようになってしまうのです。そのことを主イエスは問題になさいました。

 次に、貧しいやもめの献金の話ですが、主イエスはこの時、エルサレム神殿にいらっしゃいました。神殿には賽銭箱がありました。あるひとりのやもめがレプトン銅貨二枚でを賽銭箱に投げ入れました。このレプトン銅貨というのは、当時の一日の労働賃金であった1デナリオンの128分の1の価値であり、一番小さな単位の銅貨でした。現代の価値に換算すると、二枚で160円程度です。一方、大勢の金持ちたちは、大きな金貨をたくさん賽銭箱に投げ入れました。

 主イエスは「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と言われたのです。もちろん、問題は金額ではありません。主イエスは「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた・・・」と言われました。ここで主イエスは、金持ちが献げた金額が財産に占める割合と、このやもめが献げた金額が財産に占める割合を比較したのではありません。そもそも、献金を比較するということ自体、意味がないのです。だとすれば、主イエスはここで何を言おうとなさったのでしょうか。主イエスは、神様にささげる献金でさえも人と比べて、自分の方が多いの少ないのと心を動かすわたしたちの罪を見抜いて、そんなことは全く意味がないことを、「やもめの献金は誰よりも多い」と言うことによって教えようとされたのです。

 わたしたちの信仰生活において、献金はとても大切なものです。それは、わたしたちが礼拝において献金するときに「献身のしるしとして献げます」と祈ることからもわかる通り、実に献金は献身のしるしだからです。わたしたち献身の思いがそこに現れるからです。献身というのは、神様に愛されていることを知らされたわたしたちが神様にすべてをお献げし、すべてをお委ねして歩み始めることをいいます。

   このやもめは、自分の献身の思いをこの献金によって示しました。彼女はすべてを献げたのです。当時の女性はいまと違って、親や夫の助けがなければ一人では生きていけない存在でした。だから、やもめは、生活手段もなく、社会における最も貧しい者だったのです。その弱く貧しい存在である彼女は、何もない自分のすべてを神様に献げたということなのです。そして、神様はそれを喜んで受け取ってくださるということなのです。律法学者と比べるならば、この人には何もありません。しかし、神様を愛し、神様を信頼し、神様の御手に自分のすべてを委ね、献げました。主イエスは、このやもめの姿に信仰者としてのあるべき姿を見られたのです。

 主イエスはこれから数日後には十字架にお架かりになります。そういう時ですから、主イエスはこれから自分が十字架に架かる歩みを、このやもめが献金する姿に重ねて見ておられたのではないかと思います。この主イエスの十字架において、神への献身というものの極地を見ることができます。わたしたちがなすべき献身というものは、十字架の主イエスとつながることだと言えるでしょう。わたしたちは、ただわたしたちのために十字架におかかりなった主イエスを見上げ、ただこの方の愛に応え、ただこの方と共にありたいと願うのです。わたしたちは、目に見える様々な誘惑を退けて、まことに献身する者として、共に神の御国に向かって、すべてをご覧になる神様の御前に歩むことができる者とされたいのです。

                                   閉じる