2021.11.14 主日礼拝
ダニエル書 第12章1〜3節

ヘブライ人への手紙 第10章11〜14節,18節

マルコによる福音書 第13章24〜32節

「滅びないもの」

主イエスは、マルコによる福音書13章で、終わりの時についてお語りになりました。その中の28節で、主イエスは、いちじくの木から学ぶようにとおっしゃいます。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」。主イエスはここで、いちじくの木の様子が季節によって変わっていくことを示しておられます。それによってわたしたちに教えようとしておられるのは、移り変わっていく木の姿によって、今という時がどのような時なのかを知れ、ということです。過去を振り返り、過去の影響の下にある現在を見つめ、今をどうすることによってこれからどうなっていくのかという展望を持って、将来に向かって進んで行けということです。主イエスがいちじくの木から学べと言っておられるのは、そういう歴史的感覚のことなのです。しかしそれは、目先の歴史を見つめることではありません。主イエスはもっと根本的な、この世の終わりをも視野に入れた歴史的な感覚を持つようにと語っておられるのです。歴史的感覚を持つとは、過去を振り返ることによって今の時代の意味を捉え、将来への展望を持って、いま自分がなすべきことはどういうことなのかを考え、実行していくことです。それは言いかえれば、「仮に明日死ぬことが確実に分かっているとしても、わたしは今日も自分のいつもの仕事をする」ということを意味します。このように、終わりを、死を、正面から見つめつつ、それによって動じることなく、今をしっかりと生きていくという生き方はどこから生まれるのでしょうか。

 その疑問を解く手がかりは、本日の箇所の31節にあると言えます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。ここには、天地が滅びること、つまりこの世が終わり、人間の営みが全て無になってしまうことがはっきりと見つめられています。しかしそれと同時に、その終わり、滅びの時においても決して滅びることのないものがあることが見つめられているのです。その「滅びないもの」とは「わたしの言葉」です。イエス・キリストの言葉、神様の御言葉です。天地が滅びても、神の言葉だけは決して滅びない、その滅びないものを見つめる時に、そこには目先のことにとらわれない展望が与えられていく、主イエスはそのことをわたしたちに注目させようとしているのです。

 決して滅びることのない神の言葉、それは イエス・キリストによる救いを告げる言葉です。天地を造り、今もこの世のすべてを支配しておられる主なる神様が、その独り子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、その主イエスがわたしたちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んでくださいました。そのことによって神様はわたしたちの罪を赦してくださり、わたしたちを神の子としてくださったのです。神の言葉は、このイエス・キリストの十字架による救いをわたしたちに告げています。その神の言葉が聖書に記されており、わたしたちは毎週の礼拝においてその御言葉を聴いているのです。天地が滅びても決して滅びることのない神の言葉を、わたしたちは今こうして聴いているのです。

 神の子主イエスは、わたしたちの罪の赦しのために十字架にかかって死んでくださっただけではありません。その主イエスを、父なる神様が復活させてくださったのです。つまり主なる神様が死の力を打ち破って、主イエスに、新しい命、永遠の命を与えてくださったのです。主イエスを復活させてくださったことによって神様は、わたしたちをも死の支配から解放し、永遠の命を与えてくださるという救いを約束してくださいました。神の言葉は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した神様のこの救いの約束を、わたしたちに知らせています。言いかえれば、独り子イエス・キリストによって示された神様の愛が、死の力をも打ち破るものであり、わたしたちの死をも越えてなおわたしたちを新たに生かすものであることを、神の言葉は告げているのです。それゆえに、この神の言葉は、そこに示された神の愛は、この世の終わりに天地が滅びても、それと共に滅びてしまうことはないのです。

 わたしたちは、主イエスの十字架と復活によって約束されている永遠の命への展望と希望を、滅びることのない神の言葉によって与えられています。そのようなわたしたちが、この世の終わりをも、そして自分の死をも正面から見つめつつ、主を信じていまをそしてこれからを、希望を持って歩むことができるように祈ってまいりたいと思うのです。

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