2021.12.12 アドヴェント・降誕節第三主日礼拝
ゼファニア書 第3章14〜20節

フィリピの信徒への手紙 第4章2〜7節

ルカによる福音書 第3章7〜18節

「喜びなさい、主は近い」

 本日は、フィリピの信徒への手紙を中心に御言葉に聴いてまいります。きょうの5節のところで「主はすぐ近くにおられます」とあります。この「主はすぐ近くにおられる」すなわち「主は近い」ということには、ふたつの意味が含まれていると考えられます。

 ひとつは、天におられるキリストが、わたしたちの目に見える形で再びこの世に来られる日は近い、ということです。3章20節に「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」とあります。

 キリストが来られるのは、終わりの日、神の国の完成の時、救いの完成の時です。すでに御子によってこの世にもたらされている神の国のご支配が、その時、完成します。そして、キリストの復活の出来事を、わたしたちの復活の先駆け、復活の保証としてくださり、わたしたちの復活をも神様は約束してくださっています。わたしたちは、そのことを確信と希望を持って、待ち望むことができるのです。いまこうしている間にも、神のご計画が、その救いの完成に向かって前進しています。主は必ず来られるのだから、神の恵みのご計画の中にわたしたちは入れられているのだから、その日を待ち望んで、確実に約束された救いの完成に向かって、ひたすら走り続けていけるのです。それが、主の近さということです。

 そしてもうひとつは、わたしたちが生きているいままさにこの時においても、イエス・キリストは、わたしたちの目には見えませんが、聖霊のお働きによって、わたしの最も近くにおられる、ということです。わたしたちは、悩み苦しみの時、悲しみの時、そして自分の罪を自覚する時、祈ることさえできない時、神が遠く離れておられるのではないかと感じることがあります。暗闇の中で出口が見えず、深みにはまり、もう自分では身動きができないと思う時、わたしたちは、神の御心、神の恵みが見えなくなってしまいます。ときには、神がどこかに去ってしまわれたのではないか、わたしを見捨ててしまわれて、その身を隠してしまわれたのではないか、と思えることさえあります。しかし、「主はすぐ近くにおられます」。目に見える助けや、わたしたちの近くにいる誰かよりも一番近く、わたしたちのもっとも近くにおられます。たとえ、いま孤独でいて、目に見える助け手がいなくても、見えないキリストは、復活の主は、わたしたちの最も近くにおられるのです。ですから、わたしたちは、罪も、苦しみも、すべてをこのお方にお委ねしてよいのです。

 わたしたちが背負いきれないこと、耐えきれないこと、悩み、苦しみ、そしてわたしたちの罪、そのすべてを担うために、このお方はご自分を無にして、罪の中にあるわたしたちのために十字架にかかってくださいました。神の御子であられるお方が、わたしたちの罪のゆえに十字架にかかられたのです。わたしたちが神から見捨てられたと思ってしまうようなところでも、キリストはすぐ近くにおられ、わたしたちのために呻き、苦しみ、そして救い出してくださるのです。

 だから、わたしたちは主において常に喜びます。主に救われ、主と共に生きることを、喜ぶのです。それは、主がわたしの最も近くにいてくださるという確信の中で、すべてを委ねて、主にあって生かされる、信仰の喜びです。そして、その喜びは、主が再び来られるという、決して失われない希望が与えられている喜びです。主は近いのです。

 神の御声を聞き、心を神に向け、神にすべてを告白し、神にすべてを求めていく時、わたしたちは神との親しく深い交わりによって、信仰が励まされ、強められ、そして平安が与えられます。それは人知を超える、神の平和です。

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。生活の中で、悲しみ、苦しみ、悩み、争いがあります。しかし、この世の何ものであっても奪うことのできない、神の平和と、主が再び来られる日の希望が、キリストのものとされた者たちの人生の根底には、常にあるのです。わたしたちは、日々、キリストに守られ、支えられ、この神の平和の中に生かされているのです。わたしたちに何があっても、いつも根っこに、この主における喜びがあります。そして、その喜びの中で、主の赦しと慰めと励ましをいただいて、わたしたちも互いに赦し合い、ともに重荷を担う者とされていくのです。キリストの体をともに築いていく者とされていくのです。ですからいま、わたしたちは主イエス・キリストの御前に立ち、「主において同じ思いを抱き」、主においてともに喜びましょう。主は近い。主はすぐ近くにおられるのです。

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