2021.12.19 クリスマス礼拝
詩編 第98篇1〜9節

ルカによる福音書 第2章1〜21節

「救い主がお生まれになった」

聖書には、はっきりと記されていませんが、イエス・キリストは、馬小屋でお生まれになったということはよく言われることです。はっきりしていることは、主イエスはきらびやかな神殿のようなところでお生まれになったのではなかったということです。神様なら主イエスを、愛する御子を神殿や貴族のお屋敷のようなところで生まれさせることはおできになったはずです。しかし、神様はあえてそうはなさらなかった。なぜなら、主イエスはわたしたち弱く貧しい者の味方としてお生まれになったからです。その貧しさとは、経済的な貧しさもありますが、別の意味での貧しさもあります。主イエスはのちに「「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」とおっしゃいました。この場合の「貧しさ」とは、自分の力で自分を救うことはできないということ。神様の救いの力、神様の力によらなければ生きていけないという貧しさでもあります。神様の前に何も持たない者として生きよということです。

 それでは、なぜ神様は愛する御子イエス・キリストを赤ん坊としてこの世にお遣わしになったのでしょうか。映画に出てくるような悪者を退治するヒーローのように、突然この世に現れるというようなことでもよかったはずです。しかし、イエス・キリストは、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」として、初めてこの世に現れたのです。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」は救い主としては何もできません。親に面倒をみてもらわなければ一日も生きられません。とても弱い存在です。このことは何を意味するのでしょうか。イエス・キリストは神であられます。しかし、それはなにかどこか遠く高いところからわたしたちを見下ろすような御方ではなく、徹頭徹尾、わたしたちと同じように人としての肉の身体をもって生まれ、生きられた御方だったということです。人間として子どもの時代を経験され、幼い子どもの気持ちもわかるし、大人の弱さをも経験なさったのです。主イエス・キリストは徹底的に低いところに降りて来られたのです(フィリピの信徒への手紙2章6節以下)。

 主イエスは、人間においてもっとも弱い存在である赤ん坊の姿にまで降りて来られたのです。わたしたちのために弱く貧しい姿となられたのです。スーパーマンのような力強いヒーローのようにではなく、この世でもっとも弱い存在としてこの世に登場なさいました。主はそのご生涯において、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(フィリピの信徒への手紙2章7〜8節)。 イエス・キリストのご生涯は、30年ほどでした。主イエス・キリストは神であられたのに、わたしたち同じ人間としての姿で、人間と同じ肉体を持ち、苦しみ、悲しみも味わわれました。神と言っても、感情を持たず、なにかわたしたちとは遠く離れたところにおられて、わたしたちを見下ろしておられる御方ではなかったのです。主イエスは肉体だけではなく、心までもわたしたち人間と同じ弱さをお持ちでした。だから、わたしたちの苦しみ、悲しみもご自分のことのようにおわかりになるのです。そして肉体的、精神的な更に大きな苦しみを、主は十字架の上でこの翌日に経験されることになります。その苦しみは、わたしたちの想像をはるかに越えるものでありました。それは到底わたしたちが耐えられる苦しみではありませんでした。なぜ主イエスはこのような苦しみを受けられたのでしょうか。それは、わたしたちに代わって刑罰を受けられるためです。  わたしたち人間は誰しも、神様に背き、神様に対して深く大きな罪を犯しています。そのわたしたちの罪が赦されるために、主イエスはわたしたちの代わりに十字架の苦しみを受けられました。その苦しみの大きさは、わたしたちの罪の深さ、大きさを表しています。主イエス・キリストを十字架につけたのはわたしたちなのです。主イエスは罪深いわたしたちの救いのためにこの世に遣わされました。この世にお生まれになったのです。クリスマスの意味とは根本的にそういうことなのです。ですから、クリスマスは救い主の誕生を祝うことでもありますが、より根本的なところでは天の父なる神様がわたしたちの救いのために愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられ復活させてくださったということを感謝し、しっかりと心にとめなければならないことなのです。そのことをひとりでも多くの人たちに証していけるように祈り求めてまいりましょう。

 そして、わたしたちは、礼拝の度ごとに「イエスこそ救い主である」ということをみ言葉によって示され、きょうの聖書箇所の10節にあるように「民全体に与えられる大きな喜びを告げ」られ、神をあがめ、神を讃美しながらそれぞれの場所に帰って行くことができるように祈りたいと思います。それはわたしたちにとって大きな救いの喜びです。その喜びを礼拝の度ごとにいただいて歩めるようにいつも祈ってまいりたいと思うのです。

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