2021.12.26 主日礼拝
サムエル記上 第1章21〜28節

コロサイの信徒への手紙 第3章12〜17節

ルカによる福音書 第2章41〜52節

                          

「すべてを完成させるきずな」

 本日は、「コロサイの信徒への手紙」を中心に御言に聴いてまいりましょう。この手紙は、コロサイの教会に連なる人々に向けて語られた手紙です。この教会は、当時ほとんどが異邦人で占められておりました。この手紙が書かれた事情は、当時異端的な考え方がこの教会に影響を及ぼし始めており、パウロはその考え方を危険なものだと感じ、その事態に危機感を抱いた彼が、その異端の教えの影響からコロサイの教会の人々を守り、信仰の励ましを与えるためにこの手紙を書いたと考えられます。その異端的な教えがどのようなものだったかということについては、詳しいことはわかっておりませんが、当時世の中では、人間の救いのためには、悪魔的な力を含む様々な霊や月や太陽や星々などの天体に対する礼拝も必要であると唱えられていました。そしてそのようなものへの崇拝とともに、断食を含む禁欲的な肉体的修行によって、幻を見、悟りを得て、神に近づくことが出来ると教えられていたのです。そのことによって、自分は他人よりも優れた者であると誇り、傲り高ぶっていた者がいたということです。この異端的な偽りの教えの教師たちは、イエス・キリストの救いを全面的に否定していたのではなく、彼らは、むしろそのような教えによってキリストへの信仰を補強し、補うことができると教えていたようです。しかし、パウロは、そのような教えは「実は何の価値もない」と断言いたします。1章23節にありますように、あなた方はこのような偽りの教えに惑わされることなく「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」と強く勧めたのです。  彼が伝えた福音とは、主イエス・キリストが、全人類を罪の力、闇の力から救い出し、わたしたちに罪の赦しをお与えになるために十字架にかかられ、復活なさったのだということを信じる信仰によって、救いが与えられるということです。

 パウロは、建てられてから間もないこのコロサイの教会の人々に対して、この手紙によって、彼らがそのような偽りの教えに惑わされることないように警告を発し、福音を信じて、キリストを信じる信仰に入るということの喜ばしい意義を強調し、彼らに、一つ思いになって、キリストへの信仰に堅く立つべきことを訴えたかったに違いありません。

 12節から14節の御言葉に聴きましょう。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」とあります。

 12節にあります「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」という徳目は、異教徒の世界においても望まれる事柄です。これらの徳目は、親を大切にしなさい、困っている人を助けてあげなさいなどということと共に、倫理道徳の上で古今東西のいつの時代でも世界中の各地で、人が世の中で生きていく上でも大切なこととして重んじられてきました。

 しかし、パウロはこのところをそのような意味だけで取り上げているのではありません。この手紙が教会の人々に向けて書かれているということからもわかるように、パウロはコロサイの教会の人々に対して、「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」、神の共同体の一人一人として、それにふさわしくこれらの徳目を身につけなさいと勧めているのです。そして14節でこれらの徳目に加えて、「愛を身に着けなさい」と教え、「愛は、すべてを完成させるきずなです」と強調いたします。「きずな」とは、帯、綱、ロープ、バンドなどの、物をつないでおく道具のことをいいます。それは、人と人を精神的に、あるいは霊的につなぐものということにとどまらず、物同士をつなぐ道具のことでもあります。ここで「愛」は、先に挙げられた、慈愛や謙遜などの徳目を一つに繋ぎ合わせ、全体的に完成へと導いていくものということです。逆に言えば、愛がなければ完成には至らないということです。さらに言えば、完成どころか、愛という帯がなければ、全てがばらばらになり、まとまらないということです。それがなければなんにもならないということなのです。

 ここでパウロは、愛によってキリストの体なる教会の一致を完成させなさいと勧めているということが言えると思います。愛をもって互いに仕え合いなさい。その愛がすべてを完成させる帯、きずなとなる。またそのことによって、異端的な偽りの教えからも守られるのだということも彼は言いたかったのではないでしょうか。わたしたちもまた、愛によってキリストの体なる教会の肢のひとつひとつとしてお互いを支え合い、祈り合って、ひとつとなって救いの完成に向かって、神の御国の実現のために神様にお仕えできる者たちとなれるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

                           閉じる