2022.2.20 主日礼拝
創世記 第45章3〜11節、15節

コリントの信徒への手紙一 第15章35〜38節、42〜50節

ルカによる福音書 第6章27〜38節

                          

「神の子となるため」

きょうのところの初めに「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」とあります。主イエスのこのみ言葉を単なる道徳として捉えるならば、私たちはとてもできないことだと考えてしまいます。「これは理想主義であって、実際にそんなことはできっこない」と言う人もいるかもしれません。そして、「どうしてこんな出来もしないことを命じるのか」と言って、主イエスに対して腹を立てる人さえあるかもしれません。かつて哲学者のニーチェという人がいましたけれども、その人は、このところを指して、「キリスト教というのは弱者の宗教である」と言って、非難いたしました。おそらく今でもそのように考える人たちも多くいることでありましょう。しかし、わたしたちは、キリストから命じられたこの戒めを簡単にスルーして良いかというとそうではないと思うのです。神様から祝福を受けているわたしたちは、イエス・キリストのみ言葉に従って生きることが求められているのです。何よりも、わたしたちがこのみ言葉に耳を傾け、実践して行かなければならないのは、私たちが救い主として信じるイエス・キリストこそが、このことを実践されたということなのです。イエス・キリストはそのご生涯の最後において、イエス・キリストと敵対する人たちの手によって、十字架にかけられ殺されてしまいました。しかし、イエス・キリストは、このルカによる福音書の23章にもありますけれども、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているの知らないのです」と祈られ、十字架におかかりになったわけです。そして、苦しみの極みの中で死に赴かれました。イエス・キリストに従うものとして、わたしたちはこのイエス・キリストのきょうの言葉を聞かなかったことにするわけにはいかないのです。わたしはきょうのところを読むときに、キング牧師のことを思い出します。キング牧師は、アメリカのとてもひどい差別的な状況の中にあった黒人の解放運動のために身を捧げて、そして殺されてしまった人です。そのキング牧師は、まさにきょうのこのみ言葉の通りに生きて、殺されていった人なのです。わたしたちは、キング牧師のように強く生きられるはずがないと思ってしまいます。しかし、そうではありません。わたしたちは、聖霊の力をいただくことによって、このみ言葉に生きることができるのです。わたしたちは自分の力だけでこのみ言葉に従って生きることはできません。聖霊とみ言葉の力を注いでいただくことによって、わたしたちはこのみ言葉に生きることができます。キング牧師は生前、牧師として、もちろん様々が説教をいたしましたけれども、彼はまさにきょうのところ。「汝の敵を愛しなさい」という題で説教をしています。その中で、キング牧師は、この「あなたの敵を愛しなさい」というこのみ言葉を受け入れるには、どうすればいいのかということを語っています。それは、神様の御心にひれ伏す。ぬかずく。神様、わたしの負けです。参りました。あなたの愛が勝ったのですと。神様の前で、降参すること以外にないと語っています。わたしたちがこのみ言葉に生きることができるようになるために、イエス・キリストは十字架にかかってくださったと言っても過言ではありません。「あなたの敵を愛しなさい」と言われても、守ることができない。愛するどころか、憎しみの感情を持つ。憎むことしかできない私たちのために、わたしたちの赦しのために、そういった罪の赦しのために、イエス・キリストは十字架にかかってくださったのです。この戒めを守る力がわたしたちの内から出るのではなくて、神様が聖霊の力を注いでくださることによって、わたしたちはこのみ言葉に生きることができるようになるのです。そしてそのことによって、わたしたちは大きな報いがあると、主イエスはおっしゃいます。35節にありますが、「しかしあなたがたは敵を愛しなさい。人に良いことをし何もあてにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」とあります。いと高き方とは神様のことです。イエス・キリストのことであります。36節に「あなたがたは父が憐れみ深いようにあなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とあります。わたしたちはまた神様のように、憐れみ深い者となれるのです。そのために、わたしたちは、ひたすらに、私たちの罪を許してくださるために十字架にかかられたイエス・キリストの前にぬかずく、ひれ伏すのです。イエス・キリストは、わたしたちの罪の赦しのために十字架にかかられたのです。キリストを十字架にかけたのは、当時のイスラエルの人たち、ファリサイ派や律法学者たちだけではありません。私たちもまたイエス・キリストを十字架にかけてしまったのです。その私たちに、神様、彼らの罪を許してくださいと、主イエスは祈られたのです。ある人が申しました。「人を愛するということは、その人を赦すということだ」。たとえば、職場や学校などでいじめられる。なぜ自分はこんな目に遭わなければならないのか。いじめた人を敵として憎む。仕返しをしてやりたいと思う。しかし、イエス・キリストは「その人たちを愛しなさい」と言われる。注意しなければならないのは、この「愛しなさい」というのは、好きになりなさい、という感情ではないということです。聖書の教える愛は、意志の力、志ということです。たとえその人を好きになれなくても、その人に親切にする、祝福を祈る、そして、赦す。そのことが、敵を愛する、隣人を愛するということです。それはわたしたちの力でできることではないのです。それは、神様のみ言葉と聖霊の力をいただくことによってしか私たちにはできないのです。すぐにはうまくいかないかもしれない。しかし、わたしたちは諦めることなく、聖霊の力を乞い求めて、神様からの導きと助けを求めて、この戒めに従っていけるように歩んでいきたいと思うのです。そしてそのことによってわたしたちは、いと高き方の子となることができます。そのことを信じて歩んで、希望を持って歩んで参りましょう。

         閉じる