2022.3.6 主日礼拝
申命記 第26章1〜11節
ローマの信徒への手紙 第10章8b〜13節
ルカによる福音書 第4章1〜13節
                          

「神の子イエス」

 本日は、ルカによる福音書を中心に、御言葉に聴いてまいりましょう。
 イエス・キリストは神の子です。きょうの聖書箇所のところで、神の子であられるイエス・キリストは、どのように生きられるのか。そのことが、わたしたちにとってどのような意味があるのかということを御言葉に聴いてまいりたいと思います。
 イエス・キリストは洗礼を受けられた後、荒野に行かれました。キリストは、聖霊の導きを受けて、荒野の中を行かれたのです。40日間悪魔から誘惑を受けられ、その後、空腹を覚えられたとあります。そのようなイエス・キリストに対して、悪魔は、三つの誘惑をいたします。この誘惑という言葉ですけれども、元々の意味は、誘惑ということと試す、試みるという意味があります。
 まず一つ目の試み、誘惑ですけれども、お腹を減らしておられるイエス・キリストに対して、悪魔は言いました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」「神の子なら」と悪魔は申します。神の子である以上、石をパンに変えるという奇跡は容易なことです。お腹がすいているなら、道端の石にパンになるように命じて、それをパンに変えて食べればいいではないかという試み、誘惑です。その悪魔の誘惑の言葉に対して、イエス・キリストは「『人はパンだけで生きるものではない』と(聖書に)書いてある。」とお答えになったとあります。主イエスは、悪魔のそういう試みに対して、誘惑に対して、聖書の言葉によって反論反撃なさったのです。「神の子なら奇跡を起こせるだろう」という誘惑です。しかし、イエス・キリストはそのような奇跡はなさいませんでした。主イエスは悪魔の誘惑を退けられました。自分がお持ちになっている神の子としての力、その力によって自分を救うことは一切なされなかったのです。イエス・キリストのご生涯において、様々な奇跡を起こされましたけれども、一度たりともご自分の救いのためにその力をお使いになったことはありません。十字架の上でもそうでした。
 次に二つ目の誘惑、たくらみですけれども、それは5節から8節までに記されています。「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。』と書いてある。」悪魔は、主イエスに二つ目の誘惑を差し出します。「一瞬のうちに世界の国々を見せた」とあります。世界の国々の一切の権力と繁栄とをあなたに与えようという誘惑です。それらはどうすれば与えられるのかといいますと、「私を拝むなら、みんなあなたのものになる」と悪魔は誘惑いたします。「神を拝むのではなく私を拝め」と悪魔はそそのかすのです。その悪魔の誘惑に対してイエス・キリストはお答えになりました。8節ですが、「あなたの神である主を拝み、ただ神である主に仕えよ」と聖書に書いてあると主イエスは悪魔に反撃なさったのです。
 このような声は何もイエス・キリストに対してだけではなく、わたしたちもその悪魔のささやきをいつも耳にしているのではないでしょうか。この世を支配する権力とまでは言わないまでも、この世の名声や力、繁栄、経済的な豊かさ、そういったものにわたしたちは心を動かされてしまいます。神様を拝んでいたはずなのに、わたしたちはその物質的なものに心を動かされて、神様を拝むではなく、むしろそういうような富や権力を神として崇めてしまう。そのような誘惑にわたしたちはいつもさらされているのです。
 そして、三つ目の誘惑です。悪魔は諦めずに三番目の誘惑をいたします。9節から12節ですが、「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「奇跡の力を持つ、神の子であるあなたであれば、神殿の屋根の上から飛び降りたらどうだ。」「あなたが、神から愛されている子どもであれば、あなたを助けてくれるだろう」と。悪魔は主イエスを試みます。その試みに対して、主イエス・キリストは12節にありますように、「あなたの神である主を試してはならないと言われているとお答えになった」とあります。神様がイエス・キリストをお救いになる力をお持ちであるかどうかを試してはならないということです。このことは何を意味するのでしょうか。神様がわたしたちを救ってくださるお方である。目には見えないお方でありますけれども、わたしたちの救いのために働いておられる。そのことを信じるということです。しかし、わたしたちは往々にして神様が働いておられる、神様の救いがあるということのしるしを求めようといたします。たとえば、夢でわたしたちにお告げで現れてくださる。わたしたちがお祈りすれば、何かご利益を与えてくださる。そういうような目に見えるしるしをわたしたちは求めてしまうのです。そのことが、「神様を試す」ということです。主イエスは、悪魔の誘惑に対して「主を試してはならない、神様を試してはならないのだ。目に見えるしるしがなくても神様への信頼に生きるのだ。すべてを神様にお委ねして生きるべきなのだ。」そのことをここでしっかりと御言葉によって、お示しになったのです。
 わたしたちは人生の歩みの上で様々な試みを受けます。悪魔サタンの誘惑を受ける。わたしたちの信仰を揺るがし、なくしてしまうおうと悪魔はいつもわたしたちを狙っています。主イエスにならって、わたしたちは聖霊と御言葉から力をいただいて、その悪魔の誘惑に打ち勝って、希望を持って歩んでいくことができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。
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