2022.3.27 受難節第四主日礼拝
ヨシュア記 第5章9〜12節
コリントの信徒への手紙二 第5章16〜21節
ルカによる福音書 第15章11〜32節
                          

「走り寄る神」

 本日は新約聖書、ルカによる福音書を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 きょうのところは、聖書の中でも、よく知られた箇所であります。「福音書中の福音書」と呼ばれている箇所でもあります。

 イエスはたとえ話をされます。一人の父親がいて、二人の息子がいたということです。弟の方が父親に「『お父さん、わたしがいただくことになっている財産の分け前をください』と言った」と12節にあります。財産の分け前。今風に言えば生前贈与ということになるのでしょうか。

 弟がその財産を全部お金に換え、そして遠い国に旅立って、そこで放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣いしてしまったのです。彼は、財産を無駄遣いしてしまって、スッカラカンになってしまった。スッカラカンになって、食べるものにも困ってしまうという状況になって、彼は本当にどうしたものかと考えたのでしょう。この弟は、17節に「我に返って」とありますけれども、もうどうしようもなかったのですね。そこで、彼は実家へと戻るわけです。そして20節ですが、「そして、彼はそこをたち、父のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親が息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。わたしたちはここを読むときに、ちょっと不思議な感じがしないでしょうか。この話において当時は、もちろん携帯電話などはありません。「お父さん、これから帰りますよ」というような電話をするわけにはいかないわけです。しかし、息子がいつ帰ってくるのかわからないのに、また遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻したとあります。なぜこの父親は、息子が帰ってくるのがわかったのでしょうか。そうです。おそらくこの父親は、息子の帰りを毎日待っていたのではないでしょうか。今か今かと毎日待っていたのです。そうでなければ、このようなことはありません。息子は「お父さんいま帰ったよ」と門を叩いて、玄関から入るなりすればいいのですけれども、父親は、息子が帰ってくるのを見つけたわけですね。遠く離れているのに家に近づいてくることがわかったということです。息子の帰りをこの父親は毎日待っていたのです。自分が与えた財産を使い果たして、放蕩の限りを尽くして帰ってきた息子。本来であれば、叱ってもいいぐらいです。何しに帰ってきたんだ、と厳しく叱られてもおかしくはなかったこの息子に対して、この父親はなんと、走り寄って首を抱いて、接吻したとあります。

 これはどういうことを言っているのかと言いますと、わたしたちは、神様から、天の父なる神様から離れてしまうことの多い者たちですけれども、わたしたちが悔い改めて、神様に立ち返る。神様の方に向き直って、悔い改めて、神様に立ち返ること。そのことを、神様は何よりも喜んでくださるということがこのたとえで示されています。

 わたしたちは、神様の教えから離れ、自分中心に考えて行動してしまうところがあります。自分の人生は自分のものだと、自分勝手に自由に生きることが何で悪いんだと考えてしまう。そのことを聖書では罪と言っています。神様の教えから離れる。それは、旧約聖書のはじめのところに、わたしたちの先祖の初めでありますアダムとイヴが、蛇の誘惑に負けて、神様から禁じられた知恵の木の実を食べ、神様のように賢くなって、自分も神様のようになりたいいと思って、神様中心の生活をしていたそれまでの生き方から離れて、自分中心の生き方をしてしまった。そのことを聖書では罪と呼んでおりますけれども、わたしたちが神様から離れてしまう。神様中心の生き方を捨てて、自分中心の生き方をしてしまう。遠い国に行ってしまう。迷い出てしまう。わたしたちは神様から離れてしまうのです。そのようなわたしたちが、自分の罪に気付き、我に返って、悔い改めて、神様に向き直り、神様のところに帰る。そういうことを神様は何よりも喜んでくださるのだと主イエスはおっしゃるのです。この愚かとも言えるほどの、この神様の息子に対するこの溺愛ぶり。これは理屈ではありません。本当にわたしたちの想像を遥かに超える神様の深い愛であります。たとえわたしたちが立派な行いができなくても、わたしたちを愛してくださる。人を愛することができず、傷つけあうばかりのわたしたちを、神様は受け入れてくださる。赦してくださるのです。わたしたちは、自分の罪深さに思いを致して、神様に向き直って生きる。そのことは聖書では悔い改めと言っておりますけれども、そのようにわたしたちが「我に返って」悔い改めることを神様は何よりも喜んでくださいます。

 しかし、わたしたちは、そのように神様に向き直るということは、わたしたちの力でなかなかできることではありません。自分が知らず知らずのうちに神様から離れてしまっている。そのことにも気づかないでいることが多くあります。それでは、どうすればわたしたちが自分たちの罪に気づき、神様のところに帰ることができるのでしょうか。それは自分たちの力ではできることではなく、それは神様の導きです。それは神の自由な恵みによることであります。わたしたちが神様をコントロールして、そのようにできることではありません。しかし、わたしたちはみ言葉に聞くことによって、神様に立ち返ることができる信仰を与えられます。きょうもこのようにして、主日礼拝において、神のみ言葉を聴くことによって、わたしたちが悔い改めることができるようにしていただけるのです。ここにありますように、出て行ってしまった息子を、毎日今か今かとその帰りを待つ。それほどの深い愛をわたしたちに注いでいてくださる、天の父なる神様のその愛に、わたしたちは感謝して、悔い改めて歩める者になれますようにいつも祈ってまいりたいと思うのです。

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