2022.4.17 イースター礼拝
イザヤ書 第25章6〜10a節
使徒言行録 第10章37〜43節
ヨハネによる福音書 第20章11〜18節
                          

「復  活」

 本日の礼拝は、イースター礼拝としてお捧げしております。イエス・キリストが、十字架にかけられて、三日後、復活なさったということ。そのことを祝い、そのことがわたしたちの救いのためにどのような意味があるのかということを、深く心に刻んで、そのことを心から喜ぶという、それがイースターにおいてわたしたちがなすことなのです。

 この「復活」ということですが、四つの福音書が聖書にありますけれども、そのどれにもこのイースター、復活の出来事を聖書の物語における大きなクライマックスとして取り上げております。本日は福音書の中でも、ヨハネによる福音書を中心に、み言葉に聴いてまいりたいと思います。きょうの最初のところで、「マリアは墓の外に立って泣いていた。」とありました。きょうの聖書の箇所の前のところで、イエス・キリストのお墓にマリアが向かいまして、その墓の入り口に転がしてあった石が、取り除けてあるのを彼女は見まして、大変驚いたということが記されております。イエス・キリストの遺体が、その墓の中に収められているはずであるのに、その墓がなんと、空っぽであったというのです。驚きと悲しみでとても動転して、マリアは、イエス・キリストの墓の外に立って泣いていたのです。その遺体が墓になかったということ、そのことに、彼女はとても驚いたのです。誰かがそのキリストの遺体を、運び去ったに違いない。そう彼女は考えました。そのときマリアが後ろを振り向きますと、イエス・キリストがそこに立っておられるのが見えたのです。「しかし、マリアはそれがイエス・キリストだとはわからなかった。」とあります。そのイエスが言われます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」マリアは、そのイエスを園庭、庭師、そこのお墓の管理人か何かだと思って言いました。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」と言いました。マリアは、キリストの遺体を、捜そうといたします。マリアが誰よりも愛していたキリストの遺体。その遺体に彼女はこだわります。どこに行ったのだろうか。しかし、そのマリアに対して、主イエスは「マリア」と、呼びかけられます。それを聞いて初めてマリアが、イエス・キリストその方だと、そこで初めて気がついたのです。イエス・キリストに名前を呼ばれて、振り向くことによって、マリアは、初めてイエス・キリストが、復活なさったということに気づかされたのです。イエス・キリストは死んだお方ではない。十字架にかけられて、殺されてしまったけれども、いま目の前にいらっしゃるのが、生きて働いておられるイエス・キリストなのだ、と気がついたのです。16節17節に、「イエスが「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」にと言った。「先生」という意味である。」イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」マリアは喜びのあまり、イエス・キリストの体に取りすがったのでしょう。しかしそのことを、イエス・キリストはたしなめられるのです。復活したわたしは、生きていたわたしと同じではない。以前あなたが触れたわたしではない。わたしはこれから後に、天の父なる神のもとに上げられるのだという意味でイエス・キリストはおっしゃたのです。それから四十日後にイエス・キリストは、天の父なる神様のもとに上っていかれるのです。そうなれば、イエス・キリストの声を聞いたり、その姿をじかに直接目で見ることはできません。イエス・キリストの姿を見ないでも、イエス・キリストがわたしたちと共にいてくださるということを信じる信仰の促しが、このときから与えられたのではないでしょうか。イエス・キリストが、死んで復活なさって神の右の座につかれ、その後聖霊を送ってくださって、聖霊としてわたしたちのそばにいてくださるのです。そのことが復活によって可能になったのです。わたしたちがどこに行こうとも、聖霊としてイエス・キリストが見えない形ではありますけれども、わたしたちのそばにいてくださるようになったのです。それが、復活によって可能になったのです。

 「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところにわたしは上る。』と」主イエスはおっしゃいました。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところにわたしは上る。」イエス・キリストの父であるお方、天の父なる神様が、わたしたちの父となってくださる。そのようにイエス・キリストはおっしゃいました。わたしたちが、イエス・キリストの父である神の子とされているのです。このときからわたしたちがイエス・キリストの父なる神様を「父よ」と呼ぶことが、許されるようになったのです。イエス・キリストは、マリアや弟子たちのように、わたしたちの前に目に見える形で、そして耳で聞く、その声を聞くことは、いまのわたしたちにはできません。しかし、復活の主がわたしたちの一人一人の名前を呼んでくださるときに、わたしたちがその声を聞いて向き変わるならば、復活のイエス・キリストがわたしたちに出会ってくださるのです。そして、天の父なる神様が、わたしたちを子として愛してくださっているということに信頼して、希望を持って、生きる道がこのときから開かれたのであります。そのことを確信して、きょうから始まる日々を歩んでいくことができるように、祈り求めてまいりたいと思うのであります。それでは、お祈りをいたします。

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