2022.4.24 復活節第二主日礼拝
詩編 第118篇14〜29節
使徒言行録 第5章12〜16節
ヨハネによる福音書 第20章19〜31節
                          

「見ないで信じる者の幸い」

 きょうの聖書の箇所は、当初イエス・キリストのご復活ということに強い疑問を抱いていた弟子の一人でトマスという人の話です。

 きょうの聖書の前のところで、イエス・キリストが復活なさって、弟子の一人でありましたマリアの前に現れたとあります。それは、安息日が開けた日の朝、週の初めの日。日曜日ですけれども、その朝早くの出来事でありました。きょうのところは、1節にありますけれども、主エイスが復活なさった日、その日の夕方に起こった出来事であると聖書にあります。その日弟子たちが、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて集まっていました。彼らがなぜユダヤ人たちを恐れていたのでしょうか。イエス・キリストはローマ帝国に反逆する犯罪人として十字架で処刑されましたから、弟子たちもまた、その手下として捕まえられ、刑罰を受けるのではないかと、非常に恐れて、鍵をかけて、誰かの家の中で集まっていたのです。

 そういう中にあって、イエス・キリストがそのお姿を表されました。しかしその場に、なぜか弟子の一人のトマスがいなかったのです。24節にありますけれども、「十二人の一人で、ディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき彼らと一緒にいなかった」とあるのです。そのトマスは他の弟子たちからその復活の話を聞いて、25節にありますが、「そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」と言いました。イエス・キリストが復活なさったこと。幽霊などではなく肉体を伴って復活なさったということ。そのことが、トマスにはにわかには信じられませんでした。イエス・キリストのお体に触って、自分の目と感覚で確かめてみなければ信じないと彼は断言いたしました。そのようなトマスに他の弟子たちは、戸惑ったことでしょう。26節に、「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」とあります。

 それでは、どうして、弟子たちが八日後、同じようにして家の中にいて鍵をかけた、そのところに集まっていたのでしょうか。おそらく、この疑い深いトマスに対して、他の弟子たちが、「わたしたちはこの週の初めの日、安息日の翌日に、イエス・キリストにお目にかかることができた。おそらく次の安息日の翌日にも、イエス・キリストが、いらっしゃるのではないか」と弟子たちは言ったのではないでしょうか。その安息日の次の日にこのようなことがあったということを、トマスに体験してもらいたかったのでしょう。そのときに、イエス・キリストが、現れてくださったのです。27節に、「それからトマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」とおっしゃいました。このところを多くの説教者は、「これは礼拝の縮図である」と述べています。わたしたちは復活の八日後である日曜日にイエス・キリストに出会うために、毎週集まっている。それこそまさに、わたしたちが毎週をお献げしている、礼拝の始まりではないか。そう考えられているのです。

 わたしたちは、いろいろな思いを持って礼拝の場に集ってまいります。わたしたちの教会だけではありません。多くの教会で、いろんな人たちが礼拝に集ってきています。中には、礼拝に来始めたばかりで、聖書のみことばがにわかには信じられない。イエス・キリストが復活なさったということが、なかなか信じることはできないという人たちも、集まってきていることでしょう。しかし、それでもよいのです。いろいろな人が礼拝の場に集まってきていることは、それはそれでいいことだと思います。本日のこの聖書の場面ですけれども、疑い深いトマスの前にもイエス・キリストが現れてくださったのです。そして、トマスがそのイエス・キリストとの出会いを通して、28節にあるように「わたしの主、わたしの神よ」と言ったとありますが、イエスというお方こそ、わたしたちの救い主であり、神であるとの告白をここでトマスはしているのです。イエス・キリストの復活を頑なに信じなかったトマスが、復活のイエス・キリストとの出会いを通して、信じる者に変えられていったのです。しかし、それは、トマスがイエス・キリストのお姿を見ただけで、そのようなキリストを信じる者に変えられたということではありません。イエス・キリストがその場に、弟子たちが集まっている中に現れてくださり、トマス一人に向かって「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけてくださったからこそ、トマスは変えられたのです。イエス・キリストは、トマスを愛していてくださっていました。赦してくださっていたのです。トマス一人に向かって、イエス・キリストは愛をもって、語りかけてくださることによって、主イエスに対して「あなたこそキリストです、救い主です」と告白する者に変えられていったのです。そのことが、わたしたちのこの礼拝の場においても起こっています。わたしたちは、弟子たちと違ってイエス・キリストのお姿を見ることもその生の肉声も聴くことはできません。しかし、この礼拝の場に身を置き続けることによって、復活のキリストがこの場に来てくださり、わたしたち一人一人に愛をもって「あなたがたに平和があるように」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけてくださるのです。その御声を聴くことによって、わたしたちも主イエスを見ないでも信じる者、主イエスを見ないで信じる者の幸いに生きることができるのです。そして、その恵みに感謝して、その幸いを、イエス・キリストの救いをこの世に証しする者となれるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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