2022.5.1 復活節第三主日礼拝
詩編 第30篇1〜13節
使徒言行録 第5章27〜42節
ヨハネによる福音書 第21章1〜14節 
                          

「破れない網」

 本日は、ヨハネによる福音書を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。

 わたしたちは今、復活節を歩んでおります。イエス・キリストが十字架にかけられまして、三日目に復活されたということ。そのことが、わたしたちの救いにとって、いかに大きなことであるかということ。そのことが聖書の教えの中心になっております。

 イエス・キリストがエルサレムで復活なさった後、「イエスはティベリアス湖畔でまた弟子たちにご自身を現された。」とあります。

 その状況は次のようでありました。ペトロは「わたしは漁に行く」と言って、漁に出ようといたします。そうしたところ、他の弟子たちも一緒に行こうということになりました。当時漁は夜に行われていたようです。彼らは久しぶりに漁に出たのですけれども、全然魚が取れなかったのです。それで彼らはがっかりしたのでしょう。この辺で戻るしかないのかなと思っていたところ、主イエスが岸に立っておられまして、「子たちよ、何か食べるものがあるか」と弟子たちに問われます。全然魚が取れなかったのですから、まだ食べるものがなかったのです。そこで主イエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」とおっしゃいます。そこで網を降ろして見ると、網を引き揚げることができないほどの多くの魚を取ることができたわけです。それで、その大量の魚、その魚を岸まで持っていったところ、炭火がすでに起こしてあって、その上に魚がのせてあり、パンもあったとあります。イエス・キリストが朝ご飯を弟子たちのために用意していてくださっていたのです。4節に、「イエスが岸に立っておられた。」とあります。このところは詳しくは書かれておりませんけれども、おそらく、夜通し魚を取るために働いていたペトロたちを、ずっと見つめておられたのではないでしょうか。朝までペトロたちを待っておられたのでしょう。そのイエス・キリストが彼らのために、朝食を用意していてくださっていたのです。パンと魚。それを、弟子たちのために用意してくださっておりました。12節に「イエスは、『さあ、来て朝の食事をしなさい』と言われた。」とあります。さらに13節に、「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」とあります。このパンと魚をイエス・キリストがくださったというこのお話ですが、この話をどこかで聞いたことがあるとお気づきの方もいらっしゃると思います。ヨハネによる福音書の6章には、五つのパンと二匹の魚で、五千人の人々に食事を与えたという話が収められております。

 この話は、このところを、この五つのパンと二匹の魚、パンと魚をイエス・キリストが弟子たちに、人々に与えたということ。そのことは何を意味しているのかと申しますと、わたしたちが礼拝において、月に一度あずかっております聖餐、聖餐式のことを表していると言われています。

 ところで、11節に「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」とあります。ここで、捕れた魚が153匹だったという数が語られています。この153というのは象徴的な意味のある数であると指摘されています。1から17までの数を順に足していくと153になります。つまり153は、調和の取れた、秩序ある、安定した数なのです。153という数字は教会の全体のことも象徴的に表しているとも考えられます。教会全体が網の中に入っている。しかし網は破れなかった。本来、キリストの体なる教会は一つである。そのことがここで表されているのです。それはどういうことによって一つにされているのか。それは、イエス・キリストの体と、流された血とにあずかるこの聖餐、聖餐式において、わたしたちはキリストと一つにされている。そのことをわたしたちはしっかりと心に留めることができるのです。

 わたしたちはこのあと聖餐にあずかりますけれども、このペトロたちのために、イエス・キリストが朝食を湖畔で用意してくださったように、この聖餐式において、復活の主が、聖霊としてわたしたちのところに来てくださって、わたしたちのために特別な食事を用意してくださるのです。この世にあるキリストの教会は全て、この聖餐にあずかることによって、キリストの教会が本来一つであるということをしっかりと心に留めることができるのです。わたしたちはこの聖餐式において、救い主イエス・キリストと一つにされているということを、体をもって味わうことができます。

 そして、もう一つ大切なことがあります。10節に「イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。」とあります。「取れた魚を持ってきなさい。」その魚とともに、聖餐にあずかるということです。わたしたちが聖餐において、そして教会において、わたしたちが持っているものをおささげする。そのことによって、わたしたちがこのイエス・キリストのお体と、流された血とにあずかるこの聖餐式において、わたしたちもまた、キリストと一つにされるのです。わたしたちは信仰生活において、神様からの恵みに感謝して、自分自身をおささげして歩んでいくのです。そのことをこの聖餐式において、わたしたちはしっかりと心に留めることができます。

 わたしたちは弱く、罪深い者たちであり、教会に連なる者たち一人一人もそうでありますけれども、本来、教会が分裂することなく一つである。そのことが、本日聴きました御言葉においてあらわされているのです。そのことをわたしたちはしっかりと聴き取って、キリストにおいて一つとされているわたしたちが、そしてすべての教会が互いの違いを乗り越えて、赦し合い、愛し合って生きていくことができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

           閉じる