V 【説教】2022年5月29日

2022.5.29 復活節第七主日礼拝
詩編 第97篇1〜12節
使徒言行録 第7章54〜60節
ヨハネによる福音書 第17章20〜26節
                          

「わたしたちが一つとなるため」

 本日は、ヨハネによる福音書を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 きょうのところの要約とも言える部分が21節にあります。そこには「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしを遣わしになったことを、信じるようになります。」とあります。すべての人、これは弟子たちだけではなく、弟子たちの伝道によって、イエス・キリストを信じるようになったすべての人たちのことです。20節にありますけれども、「彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも」と主イエスはおっしゃっています。彼らの言葉、彼らの伝道、説教によって、イエスという御方を救い主であると信じるようになった人々。それは、わたしたちも含む者たちのことでもあります。そのすべての人を一つにしてくださいと、主イエス・キリストは祈られるのです。

 神の民であり、神を信じる群れであるすべての人たちが一つになる。そのことがここで強調されております。しかし、「一つとなる」といいますと、お互いの違いを乗り越えて、話し合って、一致点を見出すというようなことではありません。父なる神、子なる神イエス・キリストとの交わり、父と子との深い愛の交わりのうちに、キリストを信じるすべての者たちが入れられる。その愛の交わりの中に入れられ、一つになるということです。父なる神、子なる神が、一つとなって抱いておられる思い。そのことを知って、父なる神、子なる神、神の交わりの中に入れられる。神を信じる者として歩むということです。

 それでは、父と子が一つとなって、抱いておられる思いというのはどういう思いなのでしょうか。それは、このヨハネによる福音書の3章16節にありますけれども、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と主イエスはおっしゃっていることを指します。イエス・キリストを信じるわたしたちが、一人も滅びないで、永遠の命を得るために、天の父なる神様は、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられたのです。そのイエス・キリストの十字架によって、わたしたちの深い罪が赦され、わたしたちに永遠の生命に生きる道、希望が与えられたのです。そのために、天の父なる神様は、大きな犠牲を払ってくださいました。そして、子なる神であるイエス・キリストは、父なる神の御旨に従順にお従いになって、十字架というわたしたちが想像もできないような苦しみを背負われ、死に赴かれたのです。わたしたちが一つになるということは、天の父なる神様、そして独り子のなる神を信じるということです。そのときに初めてわたしたちは一つになることができるのです。

 わたしたちが一つになるように、イエス・キリストが神様に対してとりなしの祈りを献げてくださっています。それが、きょう皆さんと聴いておりますところの中心のテーマです。それではなぜ主イエスはこのように、わたしたちが一つになるということ。天の父なる神様、御子イエス・キリストと一つになるということを強調しておられるのでしょうか。

 わたしたちが一つになる。その目的が、先ほど申しましたけれども、21節の後半に記されています。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」とあります。イエス・キリストが、救い主となって、この世に遣わされたということ。そのことを世が知るようになるために、わたしたちが一つになる。わたしたちが一つになる目標は、目的は、イエス・キリストが救い主としてこの世に来られたということ。そのことを、この世に証しするため、示すためにわたしたちが一つになる必要があるのだと、イエス・キリストはおっしゃっているのです。わたしたちが様々な違いを乗り越えて、一つになるということ、互いに愛し合うということ、そのことが、このキリストの教会において、神を信じる群の一人一人がそのことにあずかって生きていく。そのことによってわたしたちが、地の塩、世の光として生き、わたしたちを取り囲む人たちに対して、神様のご栄光を示し、神の救いを証しすることになると主イエスはおっしゃっているのです。それがキリストを信じるわたしたち信仰者の使命でもあります。しかし、わたしたちは罪深く弱い者たちでありますので、自分の決心や力だけでは、そのことをしっかりと果たすことができません。そのような弱いわたしたちのために、今もイエス・キリストは、神様の右にいらっしゃってとりなしの祈りを献げてくださっているのです。

 このきょうの17章の祈りは、別名「大祭司の祈り」とも呼ばれております。大祭司とは、どういう役目を果たした人なのでしょうかか。旧約聖書を読みますと、大祭司しか入ることを許されなかった神殿の一番奥深くに入り、人々の罪の赦しのために、動物の生贄を捧げ、罪の赦しを祈る。とりなしの祈りを献げるという役目を、この大祭司は果たしておりました。大祭司とは、いまのわたしたちにとってイエス・キリストのことです。イエス・キリストは、わたしたちの罪が赦されるために、動物の生贄ではなく、ご自身を神様の生贄として献げてくださいました。そのことによって、わたしたちに永遠の命に生きる道が与えられたのです。この御方こそわたしたちの大祭司であられるのです。わたしたちの信仰の歩みは、この大祭司イエス・キリストのとりなしによって支えられています。そして、これからも支えられるのです。たとえわたしたちが不安や恐れの中にあるときであっても、大祭司であるイエス・キリストが、とりなしの祈りを神様に献げてくださっている。わたしたちはそのことを、深く心に留めて、感謝して歩むことによって、その悩み多い日々も希望を持って生きることができるのです。そのことを確信して歩めるように祈り求めてまいりましょう。

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