2022.6.26 聖霊降臨節第4主日礼拝
列王記上 第19章16b、19〜21節
ガラテヤの信徒への手紙 第5章1、13〜18節
ルカによる福音書 第9章51〜62節
                          

「わたしに従いなさい」

 本日は、ルカによる福音書を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 わたしたちの信じるイエス・キリストは、そのご生涯において、ほとんどを伝道の旅に費やされました。きょうはそのイエス・キリストの伝道の旅路によって、イエス・キリストを信じるとはどういうことなのかということを皆さんとご一緒にみ言葉に聴いてまいりたいと思います。

 本日の聖書箇所の最初に、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」とあります。主イエスがお生まれになって、故郷で過ごされたそのガリラヤ。そこから、ユダの国の中心でありますエルサレムに、イエス・キリストが旅をなさることを決意されたというのです。

 それでは、イエス・キリストは、なぜエルサレムへの旅を決意なさったのでしょうか。51節にありますけれども「イエスは、天に上げられる時期が近づくと」あります。イエス・キリストはエルサレムにおいて十字架にかけられて、死なれ、三日後に復活され、そして天に上られたのです。そのような大きな出来事があったエルサレムに行かれる、それは天の父なる神様の御心でありました。主イエスは、その御心に従うことを決意されたということなのです。イエス・キリストが、わたしたちの想像もできないほどの大きな苦しみを味わわれて、十字架で処刑され、そして三日後に復活なさる、その大きな出来事がエルサレムで起こったのです。

 その旅を続けていく中で、三人の人たちが登場してまいります。まず最初の人ですけれども、57節ですが、「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人がいた。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』」と、その人に主イエスはおっしゃったのです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という強い決意を持ってある人が主イエスに申し出たのです。エルサレムへ行かれるその旅、そこに私も一緒についていきます、と強い決意を述べた人がいたのですが、イエス・キリストはこの旅は大変厳しい旅である、決して優しいものではないということをおっしゃたのです。そして第二番目の人が出てまいりまして、この59節でありますが、「そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。」とあります。この二番目の人に対してイエス・キリストは、「わたしに従いなさい」と言われたのです。先ほどの第一番目の人は、その人が自分からついていきたいと申し出たにもかかわらず、イエス・キリストは厳しい言葉をその人におっしゃったわけですけれども、この二番目の人に対しては、イエス・キリストの方から、「私に従いなさい」とおっしゃったのです。この二番目の人は主イエスによって選ばれたのです。  福音書の各所でイエス・キリストが「私に従いなさい」とおっしゃっています。マタイやマルコによる福音書でも、漁師であったペトロや他の人たちに、「私に従いなさい」とおっしゃって、彼らは従ったとあります。イエス・キリストの呼びかけに応じて彼らは従ったのです。

 イエス・キリストを信じるということは、何よりも、イエス・キリストの御跡に従っていくということです。わたしたちは信仰者として生きていく中で、様々な大切なことを携えて生きてまいります。家族や友人、知人、財産様々なものをわたしたちは大切なものとして、携えて生きています。イエス・キリストを信じるということは、他の何ものよりも一番大切なこととして、イエス・キリストの御跡に従うということなのです。

 それではイエス・キリストに従うとは、どういうことでしょうか。それは、神の教え、聖書の教えに従う、神の教え、神の御言葉を実行するということです。キリスト者としてこの世で聖書の教えに従って生きるということ、例えば、神様を愛し、隣人を愛して生きる。自分に敵対する者のために祈る、愛することはなかなか厳しい道でありますけれども、そのような教えを実行していく。そのことに伴って、わたしたちは重荷を感じて参ります。そのことは、わたしたちにとっての単なる難行苦行なのでしょうか。そうではありません。マタイによる福音書11章28節から30節に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」とあります。

 イエス・キリストの軛を負って従うということ、そのことが信仰者としてわたしたちが救われて生きる道なのです。しかしイエス・キリストの軛、軛というのは、二頭立ての牛に引かせるための道具のことでありますけれども、その軛は、イエス・キリストが共に担ってくださるがゆえに軽いのです。わたしたちが、自分の軛を負って主の御跡に従う道は、決して楽な簡単な道ではありませんけれども、イエス・キリストが共に担ってくださるがゆえに、わたしたちはその重荷、自分の十字架(9章23節)を背負っていくことができるのです。主の十字架を見上げて、自分の十字架を負って主に従っていく道、それはわたしたちの信仰の旅路であります。その信仰の旅路において、わたしたちには真の平安が与えられ、豊かな祝福が与えられるのです。そして主が再びこの世に来られる終わりの日には、わたしたちに復活の命を与えられ、永遠の命に生きる希望が与えられるのです。

 きょう皆さんと聴いてまいりましたこのところは、キリストを信じて生きるということはどういうことなのか。そして主の御跡に従っていく、弟子として生きるということはどういうことなのかということが示されております。わたしたちは、主が与えてくださるそれぞれの軛、十字架を背負って、主の御跡に従っていくことによって、真の平安が与えられ、救いの道が与えられるということ、そのことを確信して歩んでいけるように、祈り求めてまいりたいと思うのです。

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