2022.7.10 聖霊降臨節第6主日礼拝
申命記 第30章11〜14節
コロサイの信徒への手紙 第1章15〜20節
ルカによる福音書 第10章25〜37節
                          

「隣人とは誰か」

 本日はルカによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 きょう与えられております御言葉は、「善きサマリア人のたとえ」と言われております主イエスのたとえ話です。

 この話は、ある律法の専門家が主イエスに対して、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と質問したことから始まりました。

主イエスは、この問いに対して、逆に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と質問されました。主イエスはここで、「律法には何と書いてあるか。」と問うただけではないのです。もし、これだけならば、「律法にはこう書いてある。」と答えるだけでよいのです。これは知識の問題です。知っているか、知っていないかの問題に過ぎません。しかし、主イエスは、それに加えて「あなたはそれをどう読んでいるか」と問われたのです。この問いは、単に知識を問うているのではなくて、その神の言葉である律法に対して、あなたはどのように関わっているのか、つまり、どう生きているのかを問われたのです。その主の質問に対する律法の専門家の答えはこうでした。27節「彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」主イエスは、この答えに対して、28節「イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』」とお答えになりました。

 皆さんは、主イエスのこのような答えに対して、どう思われるでしょうか。「ハイ、判りました。そのように生きていきます。」そう答えられるでしょうか。しかし、この時、この律法の専門家は、「では、わたしの隣人とはだれですか。」とさらに主イエスに質問したのです。すなわち、「どこまでが私の隣人なのか」と質問したのです。当時のユダヤ教の教えでは、この隣人とは、「ユダヤ人のこと」、あるいは「家族、親族のこと」というような制限を設けていたのです。この制限の枠が狭ければ狭いほど、この律法を実行することができるようになると考えられたのです。

隣人というのは具体的です。この人は自分の隣り人なのか、そうではないのか、それを知りたい。隣り人でないのなら、放っておいてよい。でも、その人が隣り人であるとするならば、その人を「自分のように」愛さなければならなくなります。もし、隣人の制限が設けられないのなら、この戒めを全うするのは自分には無理だ。そう思うのではないでしょうか。

 主イエスは、そこでこの「善きサマリア人のたとえ」を話されたのです。隣り人を愛するというのは、誰が自分の隣人なのかということではなくて、自分が出会う人に対して自分自身が隣り人になろうとするかどうかということなのではないか。あなたたちは、神様から愛を注がれ、愛を受け取っているはずなのであって、その神様から注がれている愛を、具体的に隣り人との関わりの中で注いでいく。そのように生きるしかないのではないか。そう主イエスはこのたとえでおっしゃりたかったのだと思うのです。

 この善きサマリア人のたとえ話は、初代の教会の時代から、次のように読まれてきました。それは、ここで半殺しの目に遭って道端に捨てられていた人こそ、わたしたち自身であると読むことです。そうすると、善きサマリア人というのは、主イエスご自身ということになります。わたしたちは人を助けてあげられる者である以前に、主イエスによって介抱され、助けていただかなければならない者なのです。わたしたちはこの善きサマリア人のように生きたら、身がもたない。その通りなのです。主イエスは身がもたなかったのです。十字架の上で死なれたのです。その主イエスが、わたしたちに向かって、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われているのです。この主イエスの言葉は、主イエスの十字架の業と切り離せません。この言葉は、わたしたちの為に十字架にかかってださった、主イエス・キリストの言葉なのです。十字架の上から、主イエスは告げられます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」これは「私に従ってきなさい。私に倣う者となりなさい。」ということと同じです。

 しかし、主イエスは、わたしたちができるはずもないご命令をここで新しくお与えになったのではありません。この命令を与えると共に、それをすることができる力をも与えてくださるのです。それが聖霊による力です。わたしたちには出来ない。その通りです。しかし、聖霊ならできます。聖霊の力がわたしたちの中に宿り、わたしたちの一切の歩みを支配してくださる。ここに福音に生きる者の新しい歩みがあるのです。わたしたちは主日の朝ごとに、神様の愛を確信し、神様に愛されている喜びの中で、自分のことしか考えることのできないという罪をかなぐり捨てて、この主の言葉に従って生きる者とされていくのです。それは、聖霊がわたしたちを新たに造り変えてくださるからできるのです。それがわたしたちの救いです。この神様の救いの新しさの中で、わたしたちは神様のご命令に喜んで従う者とされ続けていくのです。

 わたしたちはこれから出合う一人一人に対して、勇気を持って一杯の水を差し出すことが出来たなら、わたしたちは、神様に新しくされた者として生き始めているのです。そのことを心から喜びたいと思います。一杯の水を差し出すことが出来たら、それを喜びましょう。困っている人の隣り人になることが出来た幸いを喜びましょう。神の福音は、わたしたちを喜びへと招く為に与えられているのです。これからもそのことに感謝して歩んでまいりましょう。

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