2022.7.24 聖霊降臨節第8主日礼拝
詩編 第138篇1〜8節
コロサイの信徒への手紙 第2章6〜15節
ルカによる福音書 第11章5〜13節
                          

「求める者は受ける」

 今日のルカによる福音書の箇所は、祈りについて、わたしたちの救い主イエス・キリストが、弟子たちに、そしてわたしたちに教えてくださった大切な教えが、ここに述べられているのです。

 わたしたちは、しかし、日常生活において、それほど切羽詰まった、生きるか死ぬかの状況に陥らなければ、祈らなくても、なんとかやっていけると、いつの間にか思ってしまっているのではないでしょうか。わざわざ祈らなくても、自分の力で、何とかやっていける。そのように考えて、振舞ってしまうことが結構あるのではないでしょうか。

 そのようなわたしたちに向かって、イエス・キリストが、わたしたちに祈ることを求めておられます。今日のところは、そのことが強調されているところなのです。そのことを弟子たちに考えさせるために、5節以下の例え話をお語りになります。夜中に、友達のところに行って、パンを貸してくださいと頼みに行ったということです。旅人がその人のところに来て、旅行中の友達が来たけれども、食べるものがなかったので、そのパンを他の友達のところに借りに行ったという話です。夜中に戸を叩いてパンを貸してくれというふうなことを言う。これは今、わたしたちの常識からすれば、非常におかしなことであります。友達のところに、さすがに親しい友達であっても真夜中にその人のところに行ってパンを貸してくれというのは非常識なことです。しかし、当時、このパレスチナ、イスラエルではこれが常識だったのです。なぜならば、今もそうですけれどもこのパレスチナの辺は特に夏は非常に暑いところでありますので、旅行は真夜中にするということもあったそうです。そして、今のように、コンビニなどありませんから、途中で食べるものがなくなったりすれば、それこそ命がけのことになってしまいます。そのため、当時は真夜中であっても、旅人のために、食べ物や飲み物を差し出すということはよくあったことのようです。その友達のところに頼みに行った、という話ですけれども。その訪問された友達は、家の中から「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちは私のそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」と答えます。これはやむを得ないことであったことでしょう。しかし、主はおっしゃいます。8節ですけれども、「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て、必要なものは何でも与えるであろう。」とあります。面倒かけないでくれと。子供たちも寝ているので、あなたにパンをあげることはできないというふうにその家の人は言った。しかし、それでもしつように頼めば、口語訳聖書では「しきりに頼めば」となっております。そうすれば、友達は必要なものは何でも与えるであろうとあります。この友達は神様の事が例えられているのです。 そして、この例えの次のところに、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とあります。祈り求める者には、与えられるのだとイエス・キリストがおっしゃるのです。そこには、祈り願う対象である神様に対する深い信頼感があるのです。祈りを聞いてくださる神です。旧約聖書の詩編の65篇3節には、「祈りを聞いてくださる神よ/すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。」とあります。神様は祈りを聞いてくださるお方だと、この詩編の詩人は告白しているのです。

 11節から13節ですが、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」とあります。 ここでは、「求める者に聖霊を与えてくださる」と主イエスはおっしゃっています。

 このことに関連して新約聖書のローマの信徒への手紙の8章14節と15節には、次のようにあります。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」とパウロは述べています。ここで、今日のところの最後で言われております「聖霊を与えてくださる。」というのは、神の子とする霊をわたしたちに与えてくださると、パウロはここで述べていることを指しているとも言えるのではないでしょうか。わたしたちを神の子としてくださる霊。これは本当に畏れ多いことですけれども、わたしたちを天の父なる神様の子としてくださる霊、すなわち聖霊のことです。この霊よってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのですとあります。この「アッバ」というのは、非常に親しみを込めた幼児語ですけれども、日本語で言えば、「父ちゃん」とか、「お父ちゃん」という呼びかけなのです。神様のことを親しく、「お父ちゃん」と呼ぶ。親しく呼べる。わたしたちをそのようにしてくださる霊を神様はお与えてくださるのです。それはまさに、父と子の親しい関係の中にわたしたちを入れてくださるということです。神様は、わたしたちをそれほどに深い愛の関係の中に入れてくださっています。ですから、わたしたちは恐れることなく、安心して神様にわたしたちの祈り願いを正直に、大胆に、勇気を持って喜んで、献げることができるのです。そのような幸いが恵みがわたしたちに与えられています。わたしたちはそのことを確信して、神様に安心して、全てのことを祈り願っていくことができるように歩んでまいりましょう。

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