2023.11.5 聖霊降臨節第24主日礼拝
マラキ書 第1章14b~2章2b節
テサロニケの信徒への手紙一 2章7b~9節、13節
マタイによる福音書 第23章1~12節
                          

「高ぶる者とへりくだる者」

 本日は、「マタイによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 本日皆さんと聴いてまいりますところは、群衆と弟子たちに対して語られたイエス・キリストの説教です。イエス・キリストは、そこで律法学者たちやファリサイ派の人たちのことを引き合いに出して大切なことを語られます。福音書を読んでまいりますと、律法学者たちやファリサ派と呼ばれる人たちがたびたび出てまいります。この人たちが、イエス・キリストと論争したり対立したり、イエス・キリストを憎み、最終的には十字架につけてしまう人たちとして、この福音書には登場してまいります。律法学者やファリサイ派と呼ばれる人たちは、神の教え、神の律法ですが、旧約聖書に記されております神の教えを正確にしっかりと守る、そのことによって、神様の救いが得られると考えていた人たちです。神様の教え、律法を人々の生活の中でどのように守っていくかということを、毎日いつも考えて実践し人々にしていた人たちなのです。しかし、その彼らに対して主イエスは厳しい批判をなさいます。4節から7節に「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に乗せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうとはしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」とあります。彼らのすることは、神の教えの実践ということよりも、自分を人によく見せるために行っている、自分がいかに信仰深く生きているかということを、人に見せびらかそうとしているというのです。このことがまさに、偽善者だと主イエスはおっしゃるのです。それは、けっして他人事ではなくてわたしたちにもあてはまることです。わたしたちは、自分はいかに立派なことを行っているかということを、人に見せびらかしてしまう。意識的にそういうことを自分ではしていないつもりであっても、いつの間にかそういうことをしてしまう。見せびらかすということまでいかないまでも、わたしたちは人目を気にしてしまう、人からどう見られているかということが気になります。何をするにも、わたしたちは人の目を気にする。人の評価を気にしてしまうのです。ほとんどの人がそういう気持ちを持って、意識的にしろ、無意識的にしろ、生きてしまう。人の見えないところでよいことをするというのは、わたしたちはそれはそれで本当に尊いことだと思うのですが、そう思っても、本音では人が評価してくれるということを気にいたします。その延長線上で、人から何か後ろ指を指されたり、悪く言われたり、批判されるということも、わたしたちは特に気にします。何か悪口を言われたりすると、自分のことを全面的に否定されているように感じて大変落ち込んでしまう。人の評価など気にしなければいいではないか、という声が聴こえてきますけれども、わたしたちはしかし、そうは言っても本音のところでは、人の評価を気にしてしまうということなのではないでしょうか。このファリサイ派、律法学者たちは、神様の教え、聖書の教えを誰よりも正確にしっかりときちんと実践する、そのことが、神様に喜ばれ、神様から救っていただける条件として考えていたのです。そうであるならば、人の評価、人にどう見みられているかなどと気にしないで、神様が自分をどう評価してくれるかということだけを気にしていればいいわけですが、そうではなく、人から「先生」と呼ばれたり、人から高い評価を得ることを求める。自分の誉れ、自分に栄光が輝くということを何よりも喜ばしいことだと考えたわけです。わたしたちも知らず知らずのうちに、人からの評価を気にして、人によく思われようとする偽善に陥ってしまう、そういうことが起こるのです。その延長線上に、人の評価を気にし、人から批判されることを恐れ、虚勢を張る、虚勢を張って生きてしまう、そういうことが起こってしまうのです。イエス・キリストは、人の評価など気にするなとおっしゃるのです。人からよく思われる、などということは気にするなと、驕り高ぶる心を捨てて、人の前にへりくだれ、神様と人の前にへりくだりなさい、とわたしたちに主イエスはおっしゃるのです。しかし、自分の決心や努力だけではうまくはいかないのが現実です。

 それではどうすれば、わたしたちは本当の意味で人の評価を気にしないで、驕り高ぶる気持ちを捨てて、虚勢を張って生きることから自由になれるのでしょうか、そのことを乗り越えていくことができるのでしょうか。天の父なる神は、ご自分の愛する御子を十字架にかけてまでわたしたちを愛してくださっています。わたしたちはこれまで多くの失敗をしたり、いろいろな人を傷つけてきたり、罪深いことをたくさんしてきたのですけれども、そしてこれからもそのようにしてしまう、罪を犯してしまう、どうしようもない存在ですけれども、そのようなわたしたちを、天の父なる神はそのままで受け入れてくださいます。天の父なる神は、そのわたしたちをそのままで愛していてくださる、わたしたちをその愛の眼差しで見つめていてくださる、わたしたちの罪を赦してくださるお方なのです。その神様を見つめるときに、わたしたちは、人前でよく思われよう、と虚勢を張る必要はなくなるのです。人からどんな評価を受けようとも、神様はそのままのわたしたちを愛していてくださいます。讃美歌493番に、「世の友われらを/すて去るときも/祈りに応えて/なぐさめられる」とありますが、神様だけがわたしたちをそのままで愛し受け入れてくださいます。そのことを見つめるときに、わたしたちは、人の目を、人の評価などを気にする必要がなくなるのです。そして、そのようにわたしたちが歩むときに、人に重荷を背負わせるのではなくて、人の重荷を背負っていける者となれるのです。それこそが、本当の意味でのへりくだりということです。そのようにして歩める者となれるようにひたすらに祈り求めてまいりましょう。

    閉じる