2023.11.12 聖霊降臨節第25主日礼拝
アモス書 第5章18~24節
テサロニケの信徒への手紙一 第4章13~18節
マタイによる福音書 第25章1~13節
                          

「花婿の到来」

 本日は「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 十人のおとめが本日の話で登場してまいります。その彼女たちが、結婚式の披露宴が始まる前に花婿を出迎えるという役目を担います。そのためにともしびを持って花婿が来るのを待っています。花婿がこの披露宴に夜やってくる。そのやってくる花婿を出迎えるためにおとめたちの十人のそれぞれがともしびを持って、迎えに行くために待っているという場面です。彼女たちは花婿を待っていたのですが、花婿の到着が遅れて、なかなかやってきません。そのうち、この十人の女性たちはつい眠り込んでしまいました。夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がして、彼女たちは驚いて、ともしびを持って迎えに出ました。しかし十人の女性たち、おとめたちのうち五人の愚かなおとめたちは、ともしびの油がなくなりそうなってしまいました。花婿を迎えなければいけないのに、夜中にともしびがない。彼女たちは大変慌てたのです。残りの五人の賢いおとめたちは、そういうこともあろうかと思って、油を壺に入れて用意していましたので、彼女たちが持っているともしびは燃え尽きるということはなかったのです。それで、その賢い乙女たちは、ともしびを持って花婿をお迎えしました。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに向かって、ともしびの油を分けてください、と頼んだのですが、賢いおとめたちはお店に行って自分の分を買ってきなさい、と言いました。慌ててこの五人はお店に買いに行ったわけですが、そうしている間に花婿が到着してしまったのです。愚かなおとめたちが油を買って帰ってきましたが、間に合いませんでした。扉が閉められてしまって、「開けてください、わたしたちも披露宴に参加させてください」と頼んだのです。当時の結婚式の披露宴というのは、誰でも参加できることになっておりました。しかし、この家の主人は戸を閉めてしまったのです。終わりの日、この世が終わる日、それがいつ来るかわたしたちにはわからないのです。終わりの日に天の父なる神の座におられるイエス・キリストが再びこの世に来られることが聖書で約束されております。その日は神様だけが知っておられます。その終わりの日がいつ来てもよいように、この賢いおとめたちが油を用意して十分な備えをして待っていたように、あなたたちも良き備えをしておきなさい、とイエス・キリストは弟子たちに、そしてわたしたちにおっしゃっているのです。

 きょうの聖書の最後のところに「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」と主イエスはおっしゃいます。その日、その時が来るまでわたしたちは目を覚ましていなければいけない、眠り込んでいてはいけない、と主イエスはおっしゃる。わたしたちがここで注意しなければならないのは、5節に「ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。」とありますように。この十人のおとめが皆、眠り込んでしまったことです。眠り込んでしまったのが、愚かなおとめたちだけではなくて、賢いおとめたちも眠り込んでしまったのです。このようにして、イエス・キリストが再びこの世に来られる日、再臨の日まで目を覚ましているということ、これは精神的な霊的な意味でのことですが、イエス・キリストがこの世に来られるその日まで、霊的に精神的に目覚めている、信仰を固く守ってその日は来るのを待ち望む、そのようにしていなさい、とイエス・キリストがおっしゃるのです。

    わたしたちも、イエス・キリストがいつかこの世にこられることを期待を持って待っていたいと思います。それがいつ来るのかはわかりません。それはわたしたちが生きている間に起こるかもしれないし、死んでからかもしれません。その日がいつ来てもよいように、わたしたちは目を覚まして、主が再び来られることを期待を待ちたいと思います。しかし、悲しいことに、わたしたちは弱い者たちです。きょう皆さんと読んできておりますこの聖書にありますように、この十人のおとめたちのように、わたしたちは皆眠気がさして眠り込んでしまうことでしょう。わたしたちがどんなに固い決心で、主がいらっしゃることを目を覚まして待っていようと力を込めて決意したとしてもすぐにわたしたちは眠り込んでしまうのです。眠り込んでしまうどころか、主の再臨などいつまで経っても起こらないではないか、そんなのは作り話であり、嘘っぱちだと思うようになってしまうかもしれない。そして、神様への信仰もあやふやなものになってしまう、教会からも足が遠のいてしまう、わたしたちの決意や決心はもろいものです。わたしたちは、どんなことがあっても、どんな困難なことがあっても、神様への信仰を守り抜こうと決意しても、すぐにそれが揺らいでしまうのです。  それでは、この弱いわたしたちが、眠気がさして眠り込んでしまわないためにはどうすればよいのでしょうか。それは、主の十字架が実にわたしたちの罪の赦しのためであったということを受け入れることによってです。そのことがいかに大きな恵みかということを受け入れることによって、わたしたちは主が来られるということを目を覚まして待つことができるのです。わたしたちは自分の決意や努力だけで、そのことを待ち望む、主の再臨を待ち臨むことはできないのです。罪の赦しの恵み、そのことを受け入れることによってこそ、わたしたちは目を覚ましていることができるのです。そのことによって信仰を固くすることができる。このわたしたちの地上の生涯は決して楽しいことばかりではなく、むしろ悲しいこと、つらいことがほとんどです。将来に対する希望を見出せない。そういうときもあるでしょう。しかし、わたしたちには終わりの日の計り知れない大きな希望があります。先に召された人たちとともに、そのときに復活の命が与えられるのです。そして、主イエスとともに、永遠の命を生きる希望がすでに与えられている。そのことをわたしたちはしっかりと心に留めて、主の再臨がいつ来てもよいように、目を覚まして、希望を持って生きていくことができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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