2023.11.19 聖霊降臨節第26主日礼拝
箴言 第31章10~13節、19~20節、30~31節
テサロニケの信徒への手紙一 第5章1~6節
マタイによる福音書 第25章14~30節
                          

「タラントンのたとえ」

 本日は、「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日も先週と同じようにたとえ話によって主イエスはわたしたちに大切なことをお語りになっています。ある人が旅行に出かけようとしたときに、三人の僕たちを呼んで自分の財産をそれぞれ預けたということです。15節に「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」とあります。この僕の主人が旅行に出かけて、しばらく留守にして帰ってきました。その家に帰ってきたときに、それぞれ預けておいたそのおカネがどうなっているのかということを三人から聞いたのです。

 15節に「それぞれの力に応じて」おカネを預けたとあります。この主人は僕たちの能力というのをよくわかっていたのでしょう。前の二人はそれぞれおカネを増やしたのですが、三人目の僕は前の二人よりはこういうことについて能力的にあまり得意ではなかったということなのです。しかし、それでもおカネを銀行に預けるなり、彼なりの努力で増やすことはできたはずだ、ということをこの主人は思ったのです。この三人の僕に対して、預けた金を倍にして増やせとか、そういうふうに最初から主人は求めていたわけではありません。それぞれの分に応じて、能力に応じてそれに見合ったおカネを預けたということなのです。

 このたとえはわたしたちに何を示そうとしているのでしょうか。ここでわたしたちが注目しておきたいのは、その三人の僕に対して、それぞれ預けられたおカネの額が違っていたということです。15節に「それぞれの力に応じて」とありますから、この三人はそれぞれ、能力的に違いがあったということなのでしょう。それにしても、この三人に対して預けたお金が違うということは、不公平と言ってもいいわけですが、わたしたちのことに当てはめてみますと、わたしたちにはそれぞれ賜物が与えられているということがわかります。神様から与えられている賜物というのは、わたしたちの持っている財産、目に見えるものだけではなく、目に見えない賜物、わたしたちの能力、経験、社会的信用なども含むと言っていいのです。それがそれぞれ違っている。わたしたちはそれを見るときに、どうしても人と比べてしまう。あの人に比べて、わたしはなんとちっぽけなものしか持っていないのかと、あの人は学歴もあるし、能力もある。それに比べてわたしはなんと貧しいものしか持っていないのかとわたしたちは、ひがんでしまう、嘆いてしまうのです。なぜ神様はそのように不公平なのか。このことについて、パウロはコリントの信徒への手紙一12章12節以下で述べています。教会を一つの体としてみなしまして、体は一つの部分ではなく、多くの部分からなっていると述べています。わたしたちの体は手、足や耳、目、いろいろな器官から部分からなっています。その部分が、それぞれの機能を果たしているわけですが、体の中で他よりも弱く見える部分がかえって必要なのですとパウロは述べています。弱い部分とは、たとえば目とか身体の見えない内部の繊細な器官ということでしょう。弱い部分があるからこそ、組織全体でその弱い部分を助けようとする。お互い助け合って、一つの体ができている。教会、これはキリストの体と言われておりますが、キリストの体なる教会は、そこに集う群の一人一人が、様々な賜物を与えられているからこそ、お互い助け合って、バラバラになることなく、キリストの体として生きていくことができる。そのことを考えますと、わたしたちはそれぞれ賜物を与えられていることは素晴らしいことなのです。わたしたちは、人と比べてわたしは能力がないとか、貧しいということで、劣等感に陥ってしまうことが多いわけですが、しかし、わたしたちの思いをはるかに超えた神様の配慮がそこに働いているのです。弱いわたしたちも、弱いなりに働くことができるのです。人はいろいろな形で生まれてきます。強い体で生まれてくる人もいるし、障がいを持って生まれてくる人もいる。秀才と言われる人たちは生まれつき、そういう能力を持っているのでしょう。しかし、それぞれ神様のご配慮があって、神様によってそれぞれの賜物が預けられているのです。それらはわたしたちのものではないのです。預かったものである限りは、それを大切に使わなければいけない。その預かったものについて不平や文句を言ってはならないのです。

 それでは何のために、神様はわたしたちにそれぞれの賜物を預けてくださっているのでしょうか。それは、それぞれの分に応じて、神様がわたしたちにできるとお考えになっていることをさせようとなさる。それが神様からわたしたちに与えられている召し、使命です。あなたたちは、自分の力を超えてまでしろ、とまでは神様はおっしゃっていない。できるところまででいい、ということなのです。そこはお互い助け合って、弱いところを補い合って、生きていく。そのことこそがキリストの体なる教会の群れにとって、まさに神様のみ旨に叶って生きることに繋がっていきます。しかし、わたしたちはどうしても自分が神様から素晴らしい賜物をいただいていることに感謝して生きることがなかなかできません。それでも、神様のものさし、神様の目から見れば、力のない弱い人の弱さそれ自体も大きな賜物だということなのです。神様が人間の群れの中でそういう人たちも必要だとお考えになったから、その人がそのように生きるようにしてくださったのです。わたしたちの思いをはるかに超えた、神様のそのようなご配慮、御心にわたしたちは従って生きる、そのことが求められているのです。神様はそのことをとてもお喜びになります。神の国は、わたしたちのこの地上の物差しをはるかに超えた神のご支配ということです。神の救いが、神の国が、終わりの日に完成する。そのときまでわたしたちは、神様から与えられた賜物をそれぞれによりよく用いて、神様のため隣人のために働くことが求められております。その働きが十分にできるように終わりの日まで祈り求めてまいりましょう。

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