2023.11.26 聖霊降臨節第27主日礼拝
エゼキエル書 第34章11~12節、15~17節
コリントの信徒への手紙一 第15章20~26節、28節
マタイによる福音書 第25章31~46節
                          

「わたしにしてくれたこと」

本日は、「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の最初に、終わりの日に全て国の民が主イエス・キリストの前に集められて、羊と山羊を分けるようにして分けられるということが記されてあります。右に分けられた羊に対して主イエスが人々に対して、天の御国はあなた方のものだとおっしゃっています。主イエスがいろいろ困っておられたときに助けてくれたと。だから、あなた方のために用意されている国を受け継ぎなさいとおっしゃっている。しかしこれを言われた人たちは、イエス・キリストに対して、そのようなことをした覚えが全くないのです。キリストに対してしたという覚えがないのに、主イエスは、あなたに天の御国を継がせようと言っておられる。そして、46節にありますように「永遠の命にあずかる」ようにしてくださると言っておられる。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」とあります。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にした」ということですが、これは何も大それたことをするということではないでしょう。たとえば、福祉施設をつくって、そういう福祉法人の理事長にでもなって、困った人たちのために働く、それも大切なことですが、ここで主イエスが言っておられるのは、そのような大きなことではないのです。「飢えているときに食べさせ、のどが乾いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたとき訪ねてくれた」とありますから、そのような福祉施設などをつくって働くということまでは求めてはおられない。もちろんそれも大切なことですが、そういうことをおっしゃっているのではない。本当に些細な小さなことです。そういう困っている隣人に対して、わたしたちがほんの小さな真心を示すということが求められています。それに対して、左側にいる人たち、山羊としてより分けられた人たちは逆にキリストが困っていたときに、何もしてくれなかったということなのです。それで「永遠の罰」を受けるとあります。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」とあります。本当に厳しいお言葉です。

 わたしたちはこの本日の話から何を聴き取らなければならないのでしょうか。永遠の命にあずかるために、わたしたちがよいことをしなければならないということなのでしょうか。よいことをすれば天の御国に入ることができる、そういうことを主イエスは言っておられるのでしょうか。そうではないのです。わたしたちが何かをしたからといって、自動的に自動販売機のように神様が何かをしてくださるということはおかしなことです。なぜならば、そういうことが通るのであれば、神様がわたしたちによってコントロールされるということになってしまいます。神様がわたしたちに永遠の命を与えてくださるというのは、あくまで神様が恵みとして、わたしたちに与えてくださるということなのです。わたしたちが終わりの日まで、どう生きるべきかということを主イエスはここで示していてくださっているのです。

 ところで、わたしたちがイエス・キリストと出会うところと言われるときに、この主日の礼拝においてみ言葉に聴く、そのことにおいてわたしたちは、主イエスと出会うことができる、それが一番確かなことなのですが、わたしたちがイエス・キリストと出会うところというのは、何もこの礼拝堂の中で、主日礼拝のときだけではないということをここで示されているのではないかと思うのです。わたしたちが日常出会う様々な人たち、ほとんどの人たちはクリスチャンではありませんが、家族や地域の人たち、職場で出会う人たち、様々な通りすがりの人たちも含めて、その人たちの背後にキリストを見ることができるのです。最も小さい者の一人の背後にキリストを見る。それは、その小さな人自身がそのままイエス・キリストということではなく、その人の背後にイエス・キリストを見るのです。イエス・キリストは、わたしたちに仕えるために十字架にかかられたお方です。高いところからわたしたちを見下ろしているだけのお方ではない。神であるお方がこの地上に来てくださって、へりくだってくださった。塵に過ぎないようなわたしたちのために十字架にかかってくださった。それはわたしたちのために仕えてくださるために主イエスがしてくださったことです。主イエスは「最も小さい者の一人」のためにもへりくだってくださったお方です。わたしたちはその最も小さいものの一人に対してほんの些細なことでありますがさせてもらうのです。わたしたちが大それたことはできませんが、そういう最も小さい者の一人に対して些細なことでも、わたしたちがして上げるということなのです。わたしたちが日常出会う様々な人の背後にキリストを見つつ、わたしたちができる限りのことをして差し上げる。それは道徳とか善意ということではなく、わたしたちのような塵にすぎない小さな者たちのためにへりくだって十字架にまでかかってくださったイエス・キリストのお姿を仰ぐことによって、わたしたちが隣人に仕えることができるように背中を押していただけるということなのです。

 「隣人を自分のように愛しなさい」という聖書のみ言葉があります。罪にまみれ、どうしようもない弱い、駄目なこのわたしたちを神様はそのままで受け入れてくださり、愛していてくださるということをわたしたちが心に留めるときに、同じように受け入れてくださる隣人に対してわたしたちもまた仕えることができる。そのような力を与えていただける。わたしたちは主の十字架を仰ぐときに隣人に対してそのことができる者にされるのです。わたしたちがそのことを心に留めて歩むときに、終わりの日にわたしたちにどういう裁きが下るのかとおびえて今を生きるということから解放されて、むしろ終わりの日の出来事を待ち望んで、終わりの日まで希望を持って歩んでいくことができるのです。

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