2023.12.31 降誕後第1主日
創世記 第15章1~6節
ヘブライ人への手紙一 第11章8~12節
ルカによる福音書 第2章 22~40節
                          

「あなたの救いを見たからです」

    本日の聖書の箇所で、主イエスとその両親の他に二人の老人が登場いたします。一人はシメオン、もう一人はアンナといいます。シメオンは、エルサレム神殿に来た赤ちゃん主イエスを見て、腕に抱いて神様をほめたたえる賛美を歌ったのです。アンナも赤ちゃんである主イエスと出会って、神様に感謝し、ほめたたえました。シメオンは神様のみ業を見ました。30節に「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」とあります。シメオンは神様の救いを見たのです。彼はいったい何を見たのでしょうか。それは両親に抱かれてエルサレムの神殿にやって来た赤ちゃんのイエスでした。この赤ん坊を見たことによって、シメオンは、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言ったのです。アンナも同じです。彼女も、両親に抱かれている赤ん坊であるイエスを見て、「神を賛美し、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」」、つまり、この幼子こそわたしたちが待ち望んでいる救いをもたらすお方、メシアだと語ったのです。

 彼らが赤ちゃんイエスを見てこのように語ったことはそれ自体が一つの奇跡、神様の不思議なみ業です。しかし奇跡には必ず神様のみ心が伴います。このことにおける神様のみ心は何なのでしょうか。

 そのみ心をさぐり知るためには、この時主イエスが両親に連れられてエルサレムの神殿に来ていたという事実に注目する必要があります。本日の箇所は、厳密に言えば誕生の物語ではありません。生まれて八日目に割礼を施され、天使のお告げによって示された通りイエスと名付けられたことが21節に、そして22節からは、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」にエルサレム神殿に上ったことが語られているのです。シメオンとアンナはこの神殿で主イエスに出会ったのです。ですからシメオンが「この目で見た」のは、主イエスの誕生の出来事ではなくて、律法の規定どおりに犠牲をささげるために、両親に抱かれて神殿に来た主イエスです。

 彼らが神殿に上った理由はこの時なされた儀式にあったのです。22節に「両親はその子を主に献げるため」とあります。両親は、生まれた子イエスを神様にお献げするために来たのです。なぜそうするのか。その理由が23節です。「それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。」初めて生まれる男の子、つまり長男は、主のために聖別される。聖別されるとは、神様のものとされるということです。長男は神様に献げなければならない、と律法に命じられているのです。両親は、この神殿における儀式によって主イエスを神様に献げたのです。この儀式を終えた主イエスをシメオンは見たのです。

 主イエスを通じて彼が見た神様の救いとは、神様の独り子、まことの神であられるお方が人間となり、それだけでなく一人のユダヤ人、イスラエルの民の一員となってくださったということです。イスラエルの慰められるのを待ち望んできた彼は、その慰めのために神様ご自身が一人のイスラエル人となってくださったという救いを見たのです。

そしてさらに彼は、その神の独り子主イエスが、イスラエル人の長男として神様に献げられたことを見たのです。そこに彼は、31、32節の神様の救いの実現を見たのです。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

 イエス・キリストが長男である神の家族は、万民に開かれているのです。神様が主イエスという長男の下に、そのような家族を集め、整えようとしておられる、その神様の救いの始まりをシメオンは見たのです。それによって、「今こそわたしは本当の安らぎ、平安を得た、満足を与えられた」と語ったのです。この満足は、人間の欲望、貪欲が満たされることによる満足ではありません。むしろ欲望、貪欲から解放されることによる満足です。ここにこそ本当の満足、喜び、安らぎが始まるのです。このことがまさにわたしたちのとっての「神の救い」なのです。

 しかし、この神様の救いが実現するために、長男である主イエスは苦しみを受けることになります。そのことをシメオンはしっかりと見つめ、母マリアに、祝福と共に語りました。34、35節に「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです』」とあります。主イエスによって、人間は打ち倒され、そしてそのことを通して立ち上がらせられるのです。主イエスは「反対を受けるしるしとして定められている」、人々は主イエスを拒み、十字架につけるのです。母マリアは、「剣で心を刺し貫かれる」ような苦しみを受けるのです。しかしそういうことを通してこそ、主イエスによる救いは実現します。ここで言われている「多くの人の心にある思い」とは人間の罪のことです。そのわたしたちの罪を神様の独り子イエス・キリストが背負ってくださり、わたしたちのために十字架の苦しみと死を引き受け、わたしたちのために身代わりとなって死んでくださいました。そのことによって、神様が万民のために整えてくださった救いが実現するのです。

 わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって、神様がこの救いをわたしたちのためにすでに実現してくださったことを知らされています。この救いをみ言葉によって示され、その救いにあずかることのしるしである洗礼へと招かれ、その招きにあずかった者たちが主イエスとの生きた交わりに生きるための聖餐にあずかりつつ歩んでいます。そのようにしてわたしたちも、この目で、神様の救いを見ているのです。そこに、真実の安らかさ、平安、満足が与えられています。今こそわたしたちは、本当に安らかに生きることができるのです。そのことを確信して、希望を持って歩んで行けるように祈り求めてまいりましょう。

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