2024.1.7 降誕後第2主日
イザヤ書 60章1~6節
エフェソの信徒への手紙 3章1~6節
マタイによる福音書 2章1~12節
                          

「世にあらわされた救い」

 本日は、マタイよる福音書を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 マタイによる福音書では、ルカによる福音書ほどには、主イエスが誕生されたときのことを詳しく記しておりません。本日の聖書箇所の最初の1節に「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」とありますが、ヘロデ王の時代にイエス・キリストがお生まれなったということ、そのことの意味を聴くということが今日の説教のテーマの中心になっています。

 イエス・キリストがお生まれになったときに東方からやってきた占星術の学者たち、すなわちそれは異邦人、ユダヤ人ではない学者の人たちということですが、彼らが言うには、「東方でその方の星を見た」とあります。それは明るく輝く星が出ていたということなのです。それはなにか大きな出来事が起こったしるしではないか、と彼らは考えました。彗星かなにかが現れたかどうかわかりませんが、そういういつもとは違うはっきりとした天体の現象が現れた。それが彼らを遠くから異国の地であるエルサレムまで導いていきました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と2節にあります。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と当時そのユダヤの国を収めていたヘロデという王様のところに彼らがやってきて、そういうふうに質問いたしました。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。」と3節にあります。なぜ彼は不安を抱いたのでしょうか。自分が王様でいるその地位を脅かすような存在が、この世に生まれてきた。そういうことを聞けば確かに不安に思うというのは当たり前の話ではあります。しかし、3節に「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」とあります。不安を抱いたのはヘロデ王だけではなくて、エルサレムの人々も皆、同様であったとあります。これはどういうことなのでしょうか。なぜ彼らは、エルサレムの人々は、ヘロデ王と同じように不安を抱いたのでしょうか。ある人が申しましたが、それは彼らが「小さなヘロデ」として生きてきたからです。わたしたちや当時のエルサレムの人々もまた小さなヘロデなのではないでしょうか。わたしたちは、自分が自分自身の人生の、自分に対する支配者、王だと思っています。自分の人生は自分のものである、誰にもコントロール、支配されることはない。それが真の自由ということだと思っている。そのことについて何の疑問を持たずに生きている人がほとんどなのです。わたしたちも実は小さなヘロデとして生きているのではないか。そういうわたしたちの自由を脅かすものとして、この世に現れたお方がいる。わたしたちも実は小さなヘロデではないか。わたしたちは、自分の人生は自分のものだと、何の疑いもなく思っているわけですが、しかし、そのわたしたちの前に、真の支配者がいらっしゃる、やってくる。にわかにわたしたちは不安に思う。。アダムとエヴァが、知恵の木の実を食べて以来、人間は自己中心的に生きるようになってしまいました。自分の人生の主人公、王は自分自身だと考えて生きるようになってしまいました。まさにそれが聖書で言うところの罪の始まりということなのです。その罪の結果として、わたしたち人間は隣人との間に摩擦を生んでしまう。愛し合って生きる関係にあるはずのわたしたちが、愛し合うどころかお互い傷つけあい、憎しみあって生きるようになってしまう。それが人間の罪ということです。まさにそれが自分の人生は自分のものだと何の疑問も持たずに考えてきてしまうわたしたちの罪深さということなのです。わたしたちは「小さなヘロデ」です。そのわたしたちを脅かす存在として、イエス・キリストがこの世に来られたのです。わたしたちは、そのわたしたちを脅かすものとしていらっしゃったそのお方を十字架にかけて殺してしまう。二千年前にイエス・キリストは十字架にかけられて、殺されてしまいましたが、しかしわたしたちは今もたびごとにイエス・キリストを十字架にかけています。そういうわたしたちなのではないでしょうか。そのことを改めてわたしたちは本日の聖書箇所からしっかりと聴きとらなければならないのです。

 さて、わたしたちは主日ごとに礼拝をお献げしておりますが、いつの間にか、それが形式的なものになってしまっているということはないでしょうか。うわべだけの礼拝になってしまっていないだろうか、ということをしっかりとわたしたちは心に留めなければならないと思います。わたしたちは本当に喜びを持ってイエス・キリストを拝んでいるでしょうか。と言いますのは、10節にある占星学者たちのふるまいを見るときに、それによって、まさに真実の礼拝の原型を見る思いにさせられるからです。10節に「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。この黄金、乳香、没薬というのは本当に貴重なものです。自分の本当に大切なものをお献げする。これはまさに自分自身を献げると言ってもいいと思います。反対に、自分が自分の人生の王として、自分自身を誰にも明け渡すことなく、しっかりとこの手に握って、手放さないようにしがみついて生きている。まさにそれは、わたしたちの小さなヘロデとしての有様です。そこから離れてわたしたちは、自分自身が王であることをやめて、自分自身のすべてをお献げする。すっかり明け渡す。イエス・キリストをわたしたちの中にお迎えして、わたしたちのすべてをお献げする。それがまさに真実の礼拝です。わたしたちが自分の人生の主人公であることをやめて、すべてをイエス・キリストにお献げして、お委ねして、礼拝をお献げしていく。そのようにして、わたしたちがイエス・キリストをわたしたちの真の支配者として迎え入れていく。それがまさにわたしたちが神を信じて生きることの喜ばしい意味なのです。そのことがまさにわたしたちの救いということなのです。その救いの道をひたすらに歩んでいくことができるようにいつも祈り求めてまいりましょう。

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