2024.1.14 降誕後第3主日
サムエル記上 第3章1~10節、19節
コリントの信徒への手紙一 第6章12~20節
ヨハネによる福音書 第1章 36~42節
                          

「わたしに従いなさい」

    本日は、ヨハネによる福音書を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の説教の題を「わたしに従いなさい」といたしました。「わたしに従いなさい」と言いますのは、救い主イエス・キリストの後に従って、ついていく、ということです。イエス・キリストの弟子となるということです。

 35節にあるこの二人の弟子は最初ヨハネの弟子だったのですが、彼らに対して主は質問をなさいます。38節に「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。」とあります。これは、イエス・キリストを信じて生きるわたしたちに対する問いでもあります。わたしたちは主イエスに何を求めているのか。何をしてもらいたいと思っているのか。わたしたちは教会に導かれる前に、様々な動機で、教会の門を叩いたはずです。何か具体的な悩みを抱いて、そこからの救い、解決を求めて、やってきた人たちが多いことでしょう。とにかくこの苦しみから解放されたい、救ってもらいたいと思って、やってきた人も多いことでしょう。しかし、わたしたちは教会の礼拝に通っているうちに、ご利益だけではない、もっとわたしたちの根本的なところでの救いということに、わたしたちは目を向けさせられるのです。イエス・キリストがここで、イエス・キリストについてきた二人の弟子に向かって、「何を求めているのか」と言われる。彼ら自身、そういうご利益的な問題の解決とともに、では自分は本当に何をイエス・キリストに求めているかということになりますと、はっきりとはわからなかったりしたことでしょう。同じようにしてわたしたちに対しても、イエス・キリストは、今もそしてこれからも、何を求めているのかと問いたもうのです。何を求めているのかというイエス・キリストの問いに対して、彼らは「ラビ・・・どこに泊まっておられるのですか。」と逆に質問をいたします。何を求めているのかという主イエスの大切な質問に対して、どこに泊まっておられるのですかという、的外れのような質問を彼らはする。これはどういうことなのでしょうか。この泊まるという言葉ですが、この言葉は元々「泊まる」ということともに、「つながる」、「とどまる」という意味もある言葉です。ヨハネによる福音書の中で、この言葉はとても多く使われています。繰り返し使われている言葉です。とても大切な意味を持っています。ヨハネによる福音書の15章1節に、「わたしはまことぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」とあります。わたしにつながっていなさい、ぶどうの木であるわたしにつながっていなさいと主イエスはわたしたちに呼びかけておられる。その「つながっている」という言葉も、ギリシア語では同じ言葉です。同じ言葉が使われているとするならば、どこに泊まっておられるのですかという言葉の意味は、表面的にどこに宿をとっておられるのですか、という意味だけではなくて、もっと深い意味があるのだというふうにも考えられるのです。この意味は、神様とあなた、主イエスとの関係はどのような関係なのか、あなた、主イエスとわたしたちとの関係において、あなたはどこにどのようにつながっておられるのか、という意味だと解釈できます。それに対して主イエスは「来なさい。そうすれば、分かる」とおっしゃって、彼をご自分の泊まっておられところに連れて行き、彼らは一晩そこにとどまった、ということなのです。その泊まった後で41節にありますように「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――メシアに出会った。」とアンデレは語る。メシアというのは、救い主という意味です。このお方こそ救い主だということが、彼らアンデレにはわかったのです。

 「来なさい。そうすれば分かる」とイエス・キリストがおっしゃいましたが、それはわたしたちに対する主の招きの言葉でもあります。わたしの後に従ってきなさい。わたしを見なさい。わたしの歩みを見て、わたしの言葉を聴きなさいと、そうすればわかる。そうすればイエス・キリストというお方こそ、わたしたちの救い主であられるということがわかるのです。このアンデレのように、わたしたちもメシア、救い主に出会ったという信仰の告白をすることができます。

 わたしたちは教会に導かれる前は、多少、キリスト教のことや聖書に興味を持っていた者たちであったわけですが、神様の導きによって、このようにして礼拝に集うことができるようになりました。しかし、わたしたちはすぐにはイエスというお方がどういうお方なのかということはわかりませんでした。もっとも、今もわたしたちははっきりと、そのことを悟りきっているわけではない。ときには疑いの眼差しで見てしまうこともあるでしょう。しかし、そのようなわたしたちですが、このようにして礼拝に集い、み言葉に聴くことによって、わたしたちの救いはこのお方にしかないということが、たびごとに、わたしたちは分からせていただける。そのことによって、わたしたちはイエス・キリストの弟子となっていくのです。

 「来なさい。そうすれば分かる。」との招きによって、わたしたちはぶどうの木であるイエス・キリストにつながっていく、つながり続けていくことができる。そして、それによって豊かな実を実らせることができます。わたしたちは、ぶどうの木につながっていることによって、神の命を与えられ、豊かな実を結ぶことができるのです。キリストに従っていく、ついていくことによって、わたしたちは信仰の豊かな実を実らせていただける。そして、神の愛のうちに生きられるようにしていただけるのです。そして、永遠の命に生きる者とされる。わたしたちが洗礼を受けて、主の弟子となっていくというのはそういうことなのです。

 また、わたしたちがわたしたちの兄弟、家族、知人に対して、「イエスこそキリストである、救い主である」と証しすることによって、一人でも多くの人たちを教会に導いていく。それがわたしたちに与えられている大切な使命の一つである伝道ということなのです。

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