2024.1.28 降誕後第5主日
申命記 第18章15~20節
コリントの信徒への手紙一 第7章32~35節
マルコによる福音書 第1章21~28節
                          

「権威ある教え」

 本日は、「マルコによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の21節に、イエス・キリストが「安息日に会堂に入って教え始められた。」とあります。これは礼拝において説教をなさるということを意味するのではないでしょうか。22節にその説教を聴いて「人々はその教えに非常に驚いた。」とあります。人々が本当にびっくりした、ということなのです。これまで人々が礼拝で聴いた教えに比べてイエス・キリストの教えというものが、それまで聴いたこともないような教えであったことに彼らは非常に驚いたのです。同じ21節に「律法学者のようにではなく」とあります。律法学者というのは福音書に度々登場してまいります。旧約聖書の教え、律法、神の掟を日常生活においてどのように適用して守るかということを彼らは日夜研究し民衆に教えていたのです。なぜ神の掟を守ることが大切なのでしょうか。それは、旧約の昔から律法を守ることによって救いが得られる、神の救いにあずかることができると考えられていたからです。ここで主イエスがお話になった教え、それは律法学者が話すこととはまったく違っていたのです。全く新しい教えとは何でしょうか。例えば15節にありますが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と主イエスが宣言されました。。そう宣言されて主イエスは宣教の旅を開始されたのです。それに対して律法学者の教えは例えば十戒などの聖書に書かれた教えに基づいた教えということです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というイエス・キリストの教えは、律法学者たちの教えのように旧約聖書の教えに基づいた細かい規定などではなく、全く新しい教えであったのです。その教えはわたしたちに決断を促すような教えです。自分が自分の人生の主人公であり、王であると思っている人たちに対して「悔い改めなさい」と主イエスはお命じになる。「悔い改める」というのは今までわたしたちがしでかしてきたいろいろな失敗や、過ちを反省するということよりも、わたしたちこそ自分の人生の王であると信じて疑わなかったその考えを、180度転換させて、自分だけに向いていたその眼差しを神様の方に向け直すこと。それによって自分の人生が自分のものではなくて、神様のものである。神様こそわたしたちの人生の王であり、支配者であるということを知る。それが「悔い改める」によって起こることなのです。  そして、「福音を信じる」ということですが、福音とは、イエス・キリストが十字架にかけられて復活なさったということがわたしたちの救いのためであったということ、罪の赦しのためであったということです。それは今まで自分のことばかりを考え、自分自身が自分の人生の王であったと信じて疑わなかったわたしたちに、180度の転換をするように決断を迫る教えなのです。それは新しい革命的な教えであり、その教えをそれまで知らなかった人たちにとって人生の大転換をもたらすような教えなのです。

 主イエスは「権威あるもの」としてそれをお教えになります。「権威」というのは力という意味もある言葉です。律法学者たちのように、旧約聖書の教えを解釈しているだけの、そういう人たちの教えではない。それを聴いた人の人生を大きく変えるような、権威ある、力ある教えであるということなのです。そのような革命的な教えについてそれを聴いた人たちの中に、強い反応を示した人がおりました。23節から24節に、「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか、正体はわかっている。神の聖者だ。』」とあります。この男は霊に取りつかれた男であったとあります。この「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体わかっている。神の聖者だ。」と叫んだのはこの男自身ではなく、この男に取りついていた悪霊でした。権威ある新しい教えによって、イエス・キリストがその言葉によって、その言葉を発することによって、この男から悪霊を追い出したのです。イエス・キリストがお教えになったこの権威ある者としての教え、権威ある新しい教えが、律法学者たちのような教えではなかったということはこのことから証明されるのです。

 律法学者たちのように、ただ単に聖書の教えをもてあそぶということではなくて、権威ある教えによって出来事を起こされていく。奇跡が起こされていく。そのような大きな力がイエス・キリストにはあるということなのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と先ほど読みましたが、神の国が近づいている、もう神の国は来ているのだとイエス・キリストはおっしゃる。もうすでにそれはイエス・キリストというお方の中に神の国が到来してきているのだということでもあるのです。したがって、その神の力がイエス・キリストに働いており、律法学者のように聖書の教えをただ単に解釈してもてあそぶのではなくて、神の力がイエス・キリストを通して働いている。大きな力が働いているのということなのです。神の国はすでに来ている。そしてその神の国はイエス・キリストというお方にこそ到来してきているのです。その神のご支配の力によって、イエス・キリストが悪霊を追い出すことがおできになった。言い換えれば、イエス・キリストは悪霊の支配を終わらせて、神の国の支配を告げる、神の聖者だということなのです。そういう意味で悪霊は主イエスというお方がどういうお方なのかということを見抜いていました。

 わたしたちが救いにあずかるためには、わたしたちを悔い改めさせ、そのような神の救いにあずからせる、権威ある新しい教えにしっかりと聴いて、歩んで行かなければなりません。わたしたちが悪霊の支配から解放されるためには、救いにあずかるためには、イエス・キリストを信じ、この権威ある新しい教えを聴くことが大切なのです。わたしたちはこれからそのことをしっかりと確信して、神の救いを祈り求めて歩んでまいりましょう。

  閉じる