2024.2.4 降誕後第6主日
ヨブ記 第7章1~4節、6~7節
コリントの信徒への手紙一 第9章16~19節、22~23節
マルコによる福音書 第1章29~39節
                          

「いやしと宣教」

本日は「マルコによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 主イエスとその弟子たちの一行は安息日の礼拝が終わった後、1章29節にありますように、弟子のシモンとアンデレの家に行きました。そうしたところ、「シモンのしゅうとが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」ということが30節から31節にあります。主イエスがこの他にも病気の人を治したり、悪霊を追い出すという奇跡をなさって、その評判がガリラヤ地方の隅々にまで広がりました。評判が評判を呼んで、奇跡をなさるお方として、主イエスの存在がみんなに知られたのです。そうしたところ、人々が病人や悪霊に取りつかれた人を皆連れてきたと32節にあります。何とか主イエスにこの苦しみから救っていただきたいと思って多くの人たちが主イエスのもとにやってきたのです。おそらく、夜までその癒しの業をイエス・キリストはなさったことでしょう。その日はそのようにして過ぎていきましたが、35節から37節に「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出ていき、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。」とあります。奇跡を起こされるイエス・キリストが多くの人たちの評判になって、有名人になっていく。そのことを見て弟子たちは、大変うれしく思ったことでしょう。自分たちの尊敬する先生がそうやって世間の注目を集めて評判になる。それは、弟子たちにとっても鼻が高いことであったでしょう。しかし、そのような彼らの期待とは裏腹に、主イエスは、弟子たちに次のようにお語りになります。38節「イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」とおっしゃいます。「そのためにわたしは出て来たのである」というところですが、「出て来た」とは、天の父なる神のもとからこの世に来られたということでしょう。主イエスがこの世に来られたのは、宣教をするため、伝道するためであると主イエスご自身がはっきりおっしゃるのです。悪霊にとりつかれて苦しんでいる人たちや、病気で苦しんでいる人たちを助けるため、救うため、その病気をいやし、悪霊を追い出すことももちろん、主イエスのなさる御業でありますけれども、そのことだけがイエス・キリストがこの世に来られた目的ではない。むしろ、それとともにもっと大事なことは、神の教えをこの世に宣べ伝えるためにいらっしゃったということなのです。主イエスは、「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」とおっしゃって、宣教の旅を始められました。「神の国は近づいた。」ということはもう神の国は来ているということです。「神の国」というのは、ある領域とか国ということ、日本や韓国や中国といった地理的な領域のことを言っているのではなくて、「神のご支配」ということです。神のご支配がもう来ているのだと。それは主イエスがこの世に来られたことによって、神の国、神のご支配は実現しているということなのです。「悔い改めて福音を信じなさい。」とは何でしょうか。それまで自分が自分の人生の王であった。そのことを信じて疑わなかった多くの人たち、わたしたちも含めてそういう人たちが180度転換して、神様の方を向き直る。自分の方ばかりを見ていた人たちが180度神様の方に向き直る。それが、悔い改めるということです。「悔い改めて福音を信じる」の言葉の中で「福音」とは、主イエスが、わたしたちの罪が赦されるため、救いのために、十字架にかかられて、死なれそして復活される、そのことが福音ということです。「悔い改めて福音を信じる」ということは、そのようにして生きるということが、まさに神の救いということなのだと主はおっしゃりたかったのです。そのことを一人でも多くの人たちに宣べ伝えるために、主イエスはこの世に来られたのです。

 病気で苦しんでいる人たちの病を癒し、悪霊に取りとりかれている人から、悪霊を追い出すということももちろん大事なのですけれども、その奇跡が起こされているということは、神のご支配がこの世に来ている、主イエスにおいて来ているということを、多くの人たちに知らせるためということなのです。

 主イエスの、「近くの他の町や村へ行こう。そこでもわたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」というこのお言葉は、群衆に向けてなされたのではなくて、弟子たちに向けてなされたということに注目しましょう。伝道、宣教するということは、主イエスお一人でなさるのではなくて、弟子たちを伴われてなさる。本当に大切なのは、主イエスの奇跡ということよりも、神の教えを宣べ伝えるという、主の伝道のお仕事、伝道の業を主イエスとともにしていくということなのです。

 それは主の招きであって、それによって主の御跡についていく。そのことをイエス・キリストは望まれたのです。この他の箇所(8章34節)にありますが、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい。」と主イエスはおっしゃいました。これはとても大切なところです。それこそが救いなのだと主イエスはおっしゃりたかったのです。わたしたちは主日の礼拝にこのようにして、神様のみ言葉に聴くために集まっているわけですが、主を信じる、神様を信じるということは、神様に、そしてイエス・キリストについていくということなのです。神様を信じるということは、主イエスの弟子となって主にお従いしていく、主イエスの弟子となるということです。そのことこそが、わたしたちの信仰そのものなのです。神様を信じる、イエス・キリストを信じるということは、主イエスの弟子となるということです。主イエスついていくということが、信仰ということであり、わたしたちの救いの道なのです。その神の招きに応えて、主の弟子として、主の御跡にどこまでもお従いすることができるように祈り求めてまいりましょう。

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