2024.2.11 降誕後第7主日
創世記 第3章16~19節
コリントの信徒への手紙一 第10章31節~11章1節
マルコによる福音書 第1章40~45節
                          

「清くされて生きる」

 本日は「マルコによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 ある時、「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来て、ひざまずいて願った」と本日の聖書箇所の40節にあります。ここにあります「重い皮膚病」という病気ですが、以前の聖書、古い聖書では「らい病」とされていました。しかし、現代ではそれは「らい病」ではなかったと考えられております。この病気にかかった人は、宗教的に汚れた者とされ、その病の苦しみとともに、社会的に差別され、排除されるという二重の苦しみを背負っていたのです。そういう苦しみ、悲しみの中にある人が主イエスの前に出てきました。本来であればそういう病気にかかった人は、健康な人のところに近づくことはできなかったわけですが、この人はあえて自分の今置かれている状況から本当に救っていただきたいという切なる思い、願いから主イエスのところにやってきて、主イエスの前にひざまずいて、いやされること、清められることを願ったということなのです。40節に、彼は「『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」とあります。また主イエスがその人を見て、「深く憐れんで、手を差し伸べて、その人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」とあります。宗教的に汚れているという病気にかかった人に主イエスは近づかれて、「手を差し伸べてその人に触れ」られたのです。これは驚くべきことです。汚れた人に「手を差し伸べてその人に触れ」るということは、その触れた人も、その病気がうつる、汚れるとされておりました。主イエスがその人を深く憐れんで、手を差し伸べられてその人に触れられました。「イエスが深く憐れんで」とあるこの「深く憐れむ」という言葉は、聖書に度々出てまいりますが、元々名詞の内臓を表す言葉から派生してできた言葉です。はらわたがよじれる程に本当に深く憐れまれる、そういう強い感情を表す言葉なのです。

 主イエスが自分がその病気に感染することを恐れず、あえてその人にお近づきになって、その人に触れられる。それは、主イエスご自身がその人の、汚れによる悩み、苦しみ、そういうものをご自身も担ってくださるということがここで意味されているのです。この重い皮膚病を患っている人は、イエス・キリストによって、病をいやしていただき、清くされました。それとともにその人に主イエスは厳しく注意して言われます。このことを「だれにも何も話さないように気をつけなさい。」とイエス・キリストが注意される。なぜ主イエスは彼にそのように厳しく注意をなさったのでしょうか。このような奇跡というのは、イエス・キリストが、神の国すなわち神のご支配のことですが、神の国の権能をお持ちであるということを示すためのしるしであったのです。ですから、ただ単に奇跡を行うだけのそういう何かスーパーマンのような、そういうお方ではないことを示すために、世間の人々にそういう誤解をされてしまわないように、「このことを誰にも何も話さないようにしなさい」と主イエスはこの人にお命じになったのです。しかし、彼は、主イエスによって自分が清められ、そして、その清めのための儀式が祭司によって行われて、社会的に復帰することができたということを彼はとても喜んだのです。それは容易に想像できることですが、それで彼は喜びのあまりそのことを世間の人々に言い広め始めました。その結果として、主イエスは「もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいないところにおられた」とあります。これは大勢の人が押し寄せてくるということで、その町にいられなくなるというような意味にもとれるわけです。しかし、この重い皮膚病を治していただいた人が、それまで病のために町の中に住むことができなかったわけで、彼は病をいやされることによって清められて、町の中で住むことができるようになり、家族や友人知人、社会の中で生きることができるようになりました。一方、主イエスは「町の外の人のいないところにおられる」ということになってしまったのです。ここで二人の立場が全く逆転してしまったわけです。これは一体どういうことなのでしょうか。つまり、まったく汚れのないお方であるイエス・キリストご自身が、重い皮膚病にかかった人の汚れとそれによる苦しみ、悲しみをご自身に引き受けてくださった、担ってださったということを意味しているのです。ここはそのことを象徴的に表しているのではないでしょうか。イエス・キリストはこの重い皮膚病にかかっている人だけではなくて、十字架によって、わたしたちの罪の汚れも、それによる苦しみや悲しみも、すべて引き受けてくださったということを、わたしたちは深く感謝して深く心に留めなければなりません。主イエスはこの重い皮膚病によって汚れを身に負って、社会的な関係からすっかり排除され、苦しんでいるこの人に近づいてくださり、深く憐れんで手を差し伸べてその人に触れ、病をいやしてくださったように、罪の汚れにまみれているわたしたちの汚れとそれによる苦しみや悲しみも、十字架よって引き受けてくださったということなのです。この重い皮膚病を患っている人の話は実はわたしたち自身のことなのです。そのような大きな恵みを受けているわたしたちは、その恵みを受けたままで、それでいいのかということになりますが、わたしたちもまたこの重い皮膚病を患っている人のように「主よ、み心ならば、わたしをわたしの罪の汚れから、そして苦しみや悲しみから救ってください、あなたは救ってくださることがおできになります」との信仰の告白をして、神への信頼によってわたしたちは生きることができるようになるのです。神との、イエス・キリストとの信頼関係に生きるということは、神の国、神のご支配の中で、神の救いにあずかるということです。わたしたちはこの本日のみ言葉からしっかりとそのことを聴き取っていきたいと思うのです。わたしたちはいつもこのことをしっかりと心に留めて、感謝して歩んでまいりましょう。

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