2024.2.18 受難節第1主日
創世記 第9章8~15節
ペトロの手紙一 第3章18~22節
マルコによる福音書 第1章12~15節
                          

「荒れ野にて」

 本日は、「マルコによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 主イエスがそのご生涯の終わりに大きな苦難を味わわれて十字架への道を歩まれ、わたしたちの深い罪の赦しのために十字架の上で、わたしたちが到底耐えることができないような、深い苦しみを受けられて死に赴かれました。十字架の刑罰というのは当時の最も残酷な刑罰です。すぐに殺されるのではなくて、深い苦しみを味わいながら殺されていくというまことに残酷な死刑の刑罰なのです。主イエスがそのような苦しみを受けられたのは、実に、深い罪を負っているわたしたちの罪が赦されるためでした。主イエスはわたしたちの身代わりとなってくださり、わたしたちには到底耐えられないような苦しみを受けられたのです。そのことを深く心に留めていくために、主イエスのご復活をお祝いするイースター、復活節前の40日間の期間において、わたしたちがそのことの意味を深く心に留めて祈り、深く悔い改めの心をもって過ごすのです。

 12節にありますように、主イエスがヨハネから洗礼を受けられてからすぐに、「”霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」とあります。「荒れ野」といいますのは、木も生えない、岩や砂だらけの荒涼としたところです。四季があり、四季折々の自然が豊かな、水も豊富なこの日本という国に住んでいるわたしたちにはなかなか想像ができないのですが、そういう荒涼としたところ、すなわち荒れ野にイエス・キリストは「”霊”によって送り出された」ということなのです。この「送り出された」という言葉は、元々のニュアンスで言うと、「追い出す」というような意味になります。「どうぞ気をつけていってらっしゃい」という意味ではなくて、追い払うように、追い出すように荒れ野に送り出されたというニュアンスがあります。ちょっと荒っぽい意味がある言葉なのです。

 わたしたちが住むこの世界も荒れ野と言ってよいでしょう。世界の各地で多くの人が飢え渇き、悲惨な戦争が起こり、荒涼とした風景が広がっています。わたしたちが住むこの地域社会においても、ただわたしたちが知らないだけで、悲惨な出来事が、日々起っている。わたしたちが今住むこの社会も荒れ野であると言ってよいのではないでしょうか。イエス・キリストが、祝福を受けて、洗礼を受けられ、そのすぐ後にこのように荒涼とした危険なところに送り出されます。それは何を意味するのでしょうか。今日のところで、13節に「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」とあります。わたしたちもまた荒れ野のようなこの世において、誘惑というものが襲ってくる、いつもわたしたちはそのようなものに取り囲まれていると言っていいでしょう。そういう意味ではわたしたちもまた荒れ野に送り出されていると言ってよいのです。

 この「誘惑」という言葉は、元々の言葉、ギリシャ語の言葉では、「試練」という意味もある言葉です。イエス・キリストが試練を受けられる。わたしたちもまた、人生において試練を受ける。わたしたちが生きていく中で理不尽とも思えるような試練を受けるということがあります。その試練をわたしたちはどのように考えればよいのでしょうか。

 なぜわたしがこのような目に遭わなければならないのかという、そのように神様にうらみごとを言うしかないような、そういう状況にもわたしたちは置かれるときがある。しかし、よく考えてみると、イエス・キリストこそ罪のない、全く罪のないお方が十字架にかけられて、殺されるということほど理不尽なことがあるでしょうか。マルコによる福音書のここから最後まで、主のご生涯の有様が述べられるわけですが、最終的に主の十字架と復活によって、わたしたちに救いの道が示されるのです。主イエスにお従いすることがわたしたちにとって救いの道なのです。

 わたしたちはキリスト者であるがゆえの苦しみ、苦難を受けることもあります。それはわたしたちにとっての試練ということです。試練というのは、鍛錬という意味もあります。わたしたちは信仰者として成長させていただくために、神様から鍛錬を受ける。鍛錬を受けることによって、わたしたちは成長していくことができる。信仰の成長をしていくことができるのです。

 なぜこんな苦しみを受けなければならないのかという神への恨みを抱いてしまうこともときにはあることでしょう。そのことによって、神様何もしてくれないじゃないかといって、信仰から離れてしまうということもあり得るわけですが、しかし、そういう苦しみを神様からの鍛錬であると、試練であると受け止めて、それはわたしたちの信仰の成長を促してくださるための主の御業であると、わたしたちは受け止めていくことによって、それぞれの困難を乗り越えていくことができるのではないでしょうか。13節の後半に、イエス・キリストが試練を受けられている間、「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」とあります。野獣のいるような危険な荒れ野において、主イエスとともに天使たちがおられる。厳しい試練を受けられるイエス・キリストの傍らで、神が送ってくださった天使たちが仕え、主イエスを守っていてくださる。同じようにわたしたちが試練を受けている間、神はわたしたちを守っていてくださるのです。

 わたしたちが受ける苦しみの意味をすべてわたしたちが知ることはできません。神様の計り知ることができない御旨をわたしたちが知り尽くすことはできません。それは終わりの日にすべて明らかにされることです。しかし、この世で最も理不尽な出来事によって殺された主イエスの御後に従い、復活を果たされたその御栄光の御姿を仰ぐときに、わたしたちの苦しみもまた、意味のあるものとなっていくのではないでしょうか。受難節の第一主日にわたしたちはこのことをしっかりと心に留めて、主の御後にどこまでも従って、神の救いの道を歩んでいく者となれますように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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