2024.2.25 受難節第2主日
創世記 第22章1~12節
ローマの信徒への手紙 第8章31~34節
マルコによる福音書 第9章2~10節
                          

「主の栄光を見る」

 本日は、「マルコによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の直前にある9章1節に「神の国が力に溢れて現れるのを見る」とありますが、これはどういうことなのでしょうか。これは聖書に度々出てきますが、終わりの日、天と地が滅んで終わりの日がやってくる、と聖書には記されておりまして、終わりの日に神の御国が完成するときということなのです。そのときに、今は天の父なる神の右におられますイエス・キリストが、わたしたちの目に見える形で、この世においでになるということが聖書で約束されています。主イエスがその終わりの日まで、「決して死なない者がいる」というようなことをおっしゃる。これは、謎に満ちた言葉です。聖書を解釈する学者によりますと、おそらくこのところは、終わりの日がすぐにでも来る、教会の人たちが生きている間に、終わりの日を迎えることができるという、当時の教会の人たちの願望がここに投影されているのではないかとされております。終わりの日、イエス・キリストが必ず来られるという日、その日が生きている間に来るというようなことであるならば、わたしたちはイエス・キリストが生きておられたときから二千年以上も経っているのにもかかわらず、イエス・キリストが再び来られる再臨が起こっていないということを、わたしたちはよく知っております。そうなると主イエスは嘘を言ったことになってしまいますが、そういうことではないのです。主イエスが再びこの世にこられるという弟子たちの願望が単に示されているということではないのです。もしそうであったならば、弟子たちはなぜひどい迫害を受けてまで、神の教えを伝道していったのでしょうか。弟子たちの中には殉教していった者もいる。なぜ彼らは命をかけてまで、そのようなことができたのであろうか。彼らの願望だけで、そういうことが支えられたのではない。彼らは現実に栄光にあふれた、栄光に満ちた、主のお姿を見たのではないか。だからこそ彼らは殉教を恐れずに、伝道していったのではないか。それでは、終わりの日にイエス・キリストがわたしたちの目に見える形でいらっしゃる栄光のお姿を見ることができるのでしょうか。そのことを踏まえながら、きょうのところ、2節以降を皆さんと御言葉に聴いてまいりたいと思います。2節から3節に「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」とあります。弟子の三人を連れて、主イエスは高い山に登られまして、そこで驚くようなことが起きたのです。彼らは主の栄光のお姿を目撃したのです。ここで使われている「変わり」という言葉は、たとえば「サナギが蝶になる」というようなときに使われる言葉で、姿が元の姿を残さないほどにまったく変わってしまうという意味です。それほどまでにまばゆい、光輝くお姿に変わったということなのです。

 終わりの日に、イエス・キリストは栄光に輝く姿でいらっしゃると聖書に記されてます。それまでは人間の目には輝くお姿でわたしたちの前に現れることはないのでしょうか。本日皆さんと聴いてまいりますところで、終わりの日が来る前に弟子たちが栄光に輝く主イエスにお目にかかることが許されたのです。主イエスは自由な恵みによって栄光のお姿を表してくださいます。弟子たちが終わりの日にならなくても主イエスの栄光の姿を垣間見ることが許されたのです。そういうことがあったからこそ、弟子たちは殉教をいとわず、殺されるほどの迫害の中にあっても、どこにでも行って伝道していくことができたということなのです。

 それではわたしたちもイエス・キリストの栄光のお姿を終わりの日にならなくても、垣間見ることができるのでしょうか。ある牧師が「高い山に登られた」とあるこの高い山とは、主日ごとに献げられる礼拝のことだ、と説教の中で語っておりました。主日ごとの礼拝において、わたしたちがみ言葉に聴いて、神を賛美するときにイエス・キリストの栄光のお姿が現れる、主のご栄光のお姿を垣間見ることができるとその牧師は語っています。

それは必ずそうなるのかどうかということよりも、わたしたちは主日の礼拝ごとにみ言葉に聴くことによって、主が現れてくださることを期待していいのだと思います。主が、わたしたちにその栄光のお姿を垣間見させてくださるように、祈りたいと思うのです。礼拝のときだけではなくて、わたしたちの人生の大事なときにも、その栄光のお姿とその御力を示してくださるように、わたしたちは祈り続けていきたいのです。わたしたちの力で、主イエスのご栄光のお姿を見るようにすることはできません。それは神様の自由なご意思によることであり、恵みの出来事なのです。しかし、わたしたちは礼拝において聖霊の力を請い求めて、主イエスがその栄光のお姿を示してくださるようにひたすら祈ることはできるのです。ペトロや弟子たちの前にそのお姿を現してくださったように、わたしたちにもその栄光の姿が示されることをわたしたちは祈り求め、期待してもよいのです。わたしたちはそのことを信じて、主日の礼拝ごとに祈り、願っていきたいのです。

 栄光に輝く主イエスのお姿は、今日の7節から8節に「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」とあります。「これはわたしの愛する子。これに聴け。」という言葉ですが、これは「神のみ言葉にしっかりと聴いて、それに従いなさい」ということを意味します。8章の34節に「自分の十字架を背負って、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とありますがまさにそのことが改めてここで示されているのです。それこそがわたしたちの救いの道なのです。主はそのようにわたしたちを招いていてくださいます。その招きにお応えして、救いの道をひたすらに歩んでいけるように祈り求めてまいりましょう。

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