2024.3.3 受難節第3主日
出エジプト記 第20章1~17節
コリントの信徒への手紙一 第1章18~25節
ヨハネによる福音書 第2章13~25節
                          

「愚かさと賢さ」

 本日は、「コリントの信徒への手紙一」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 「コリントの信徒への手紙」は、使徒パウロがコリントにある教会の人たちに向けて書いた手紙です。パウロがこの自分が建てた教会向けに遠く離れた別なところから手紙を書いて、コリントの教会の人たちが悩まされている問題に対処するためのアドバイスを与えたということなのです。

     本日の聖書箇所の最初のところに「十字架の言葉は、滅んでいくものにとっては愚かなものですが、わたしたち救われるものには、神の力です。」とあります。「十字架の言葉」というのは、わたしたちが聴いております福音ということです。イエス・キリストが、わたしたちの罪が赦されるために十字架にかけられて死なれ、三日目に復活を果たされる。そのことを中心とした救いのみ言葉、それが「十字架の言葉」ということです。その言葉が愚かなものだとパウロは述べています。十字架の言葉が愚かなものである。これは一体どういうことなのでしょうか。十字架の言葉は、まさに神のみ言葉であり、それが愚かなものであるというのは、わたしたちにとっては非常に戸惑いを覚える言葉になっています。

 十字架にかけられるということは、人間としてあってはならないことで、それがなぜ、救いの力、救いにつながることであるのかということが、ギリシアの人たちには全く理解ができなかったのです。この世では救いといいますと、何か自分を、自分自身を高いところに上げる、成長する、自分が成長して賢くなって、自分をより高めていくという方向で考えていこうとする傾向があります。今も昔もそうです。この古代ギリシアの時代において、救いの教えというのは、自分自身を賢くしていく、自分自身を高めていくという、そういうことが教えの中心でした。十字架によってわたしたちが救われているという「十字架の言葉」の教えは、そのことと真っ向から対立するような教えになります。なぜならそれは、わたしたちを賢くするとか、高めていくという、そういうことどころか、十字架にかけて処刑されるべきはイエス・キリストではなくて、わたしたちなのだということを述べているからなのです。

    世間の多くの人たちが、なぜ十字架の上で無残に殺されてしまった男が、わたしたちの救いなのかということを疑問に思うのは当然考えられることです。十字架につけられたキリスト、それがわたしたちの救いにつながる。世間の人から見れば、それは愚かなことだと見られてしまう。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものです」とあります。わたしたちこそが、十字架にかけられなければならなかったのに、その身代わりになって十字架にかかってくださる、それこそが愚かなことなのであるとギリシア人やユダヤ人の目には映ったのです。

 21節の後半に「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」とあります。「宣教という愚かな手段によって」とありますが、原文ではこの「手段」という言葉はありません。「宣教という愚かさによって、信じる者を救」うという意味です。宣教というのは、神様の教えを宣べ伝えることですが、ここではその中身が問題なのだということなのです。その中味とは、わたしたちの罪が赦されるために、わたしたちの身代わりとなってイエス・キリストが十字架にかけられる、死なれるということが世間から見れば愚かなことであるが、しかし、その愚かさによってわたしたちが救われる、それこそがわたしたちの救いであるということなのです。わたしたちの身代わりになって十字架という刑罰を受けられることによってわたしたちの罪が赦され、わたしたちが救われるのです。それが神の知恵なのです。25節に「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」とあります。世間の人たちは、救いの教えとは、自分自身を高めていく。自分自身を賢い者にするということが人の救いにつながるのだと考えています。しかし、わたしたちは自分の力で自分を救うことはできません。わたしたちはわたしたちの力ではどうしようもない罪の汚れを身に帯びています。その罪の汚れから自分を洗い清めるということ、解放するということは自分の力では到底できることではありません。その罪の力から自分を解放することはできない。解放されるためには、外からの大きな力が必要なのです。わたしたちのその深い大きな罪の力からわたしたちを解放してくださるために、天の父なる神様は誠に大きな犠牲を払ってくださいました。逆に言えば、愛する御子イエス・キリストの十字架の犠牲によらなければならないほどに、わたしたちは深い罪を身に帯びているということなのです。罪の深い穴からわたしたちを救い出してくださるために、神によって大きな犠牲が払われねばならなかったということなのです。世間の目から見れば、それが愚かなことだと、神の愚かさということになるのですが、しかしそこにこそ、この世の知恵を滅ぼす、賢い者の賢さを意味のないものにするほどの、大きな力が秘められているのです。

 この世では、わたしたちも含めて、自分の力で自分を賢い者にし、自分を高めて、救いの道を歩んでいきたいと思う人が大半です。しかしわたしたちは、自分の賢さ、自分の知恵によっては、自分の罪から逃れることはできないのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」と25節にありますように、わたしたちの思いをはるかに超えたその御心によって、この世の知恵では愚かに見えるほどに、賢く、大きな御業がなされたということがわかるのです。わたしたちは「十字架の言葉」、すなわちそれはまさに福音ということですが、それこそが、わたしたちの救いなのだということを、わたしたちはしっかりと心に留めて、み言葉にしっかりと聴いて、主の御後に歩んでまいりたいと思うのです。それこそが、わたしたちにとっての救いの道ということなのです。そのことを確信して歩んでいくことができるように祈り求めてまいりましょう。

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