2024.3.17 受難節第5主日
エレミヤ書 第31章31~34節
ヘブライ人への手紙 第5章7~9節
ヨハネによる福音書 第12章20~26節
                          

「一粒の麦」

 本日は、「ヨハネによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 21節に過越祭のときに何人かのギリシア人が主イエスの弟子のフィリポのところに来て、主イエスにお目にかかりたいのですと言ったとあります。主イエスはそのギリシア人たちに向かって語られたかどうかわからないのですが、はっきりと「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われます。この「栄光を受ける時」というのは、普通に考えられる晴れがましい時のことではありません。それはどういうことかというと、続けて24節にこう記されています。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」これは明らかに、主イエス御自身が十字架にお架かりになること、そして三日目に復活され、40日後に天に上られること、さらに、キリストの教えが全世界に広がって、多くの人が救われることを示しています。

 主イエスは、この「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」という言葉に続いて、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と語られました。主イエスの十字架の死は、わたしたちの罪の裁きの身代わりです。わたしたちはこのお方の死によって、永遠の命に生きる者とされました。ですから、わたしたちはもはや主イエスの十字架がなかったかのように生きることはできないのです。主イエスの十字架と結び合わされた者として生きるしかありません。それが、「この世で自分の命を憎む」ということです。もちろんこれは、自分が生きることを憎んで、自分を殺して生きるということを意味しているのではありません。まして、自死を勧めているのではありません。これは、この世において、自分の欲を満たす、自分の栄光を求める、そういうことのために生きる生き方を憎むほどまでに拒否する。ただ神の国と神の義を求めて生きる者となるということです。神を愛し神に仕え、人を愛し人に仕える者として生きる者となるということなのです。主イエスが受けた栄光と、自分が受ける栄光が重なるということです。これが献身ということです。主イエスの十字架は、わたしたちの身代わりの死であるばかりでなく、わたしたちに献身という全く新しい生き方を与えるものなのです。主イエスの罪の赦しの中に生きるということと、献身という生き方は切り離すことができません。主イエスの十字架は、必ずわたしたちを献身へと導くのです。キリストの教会は、その初めから今に至るまで、このキリストによって召された献身者の群れとして存在しているのです。

 この主イエスの「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ」というみ言葉、そして「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」という御言葉は、ヨハネによる福音書15章13節の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」との御言葉を思い起こさせます。この主イエスの御言葉もまた、十字架の上で自らの命を捨てられた主イエスの歩みが、その十字架によって新しくされた主イエスの弟子の歩みとなるということを示しています。

 わたしたちはそのような新しい歩みに生きる時、主イエスが自分と共におられ、自分が主イエスと共にあることを知ります。しかし、神様なんて関係ないと言って、自分の欲を満たし自分の栄光をひたすら求めるような生き方をしていて、主イエスが共にいて自分の歩みを守ってくださるというような、そんな都合の良い信仰は、聖書の信仰ではありません。それは、生ける神を自分の利益のために奉仕させようという信仰のあり方です。そうではなくて、主イエスの歩みにわたしたちの歩みを重ねるようにして生きる時、献げるという新しい生き方に歩む時、その歩みは主イエスと共にある歩みとなるということなのです。そして、この主イエスと共にあるということこそ、わたしたちにとって何ものにも代え難い喜びなのです。

 26節に「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」とあります。主イエスが、わたしたちと共にいてくださるというのは、主イエス御自身が与えてくださった約束なのです。そして更に主イエスは、「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」とも約束してくださいました。天地を造られた神が、わたしたちを大切にしてくださるというのです。「大切にする」とは、直訳すると「尊敬する」「重んじる」という意味の言葉です。何と畏れ多く、ありがたいことかと思います。天地を造られた神が、わたしたちを大切にしてくださるのですから、誰がわたしたちに悪さをすることができるでしょう。自分を大切にしてくださる天の父なる神という主人を持つ者とされ、かつ自分と共にいてくださるイエス・キリストという主人を持つ者とされた者、それがキリスト者なのです。

 わたしたちの日々の歩みにおける最大の関心事は、どうすれば人に好かれるか、どうすれば楽ができるか、どうすれば社会的地位や富を手に入れられるか、というようなことではありません。それらはどれも、わたしたちにとって本当の主人を持たなかった時のわたしたちの関心事でしょう。本当の主人を持った今、わたしたちの関心事は、どうすることが主イエスに従うことであり、父なる神の御心に適うのかということなのです。良き僕は、主人と共にあることを何より喜び、主人が喜ぶことを自分の喜びとするのです。わたしたちは、主イエスの十字架によってもたらされた多くの実りの一粒一粒なのです。主イエスの十字架がなければ、わたしたちもないのです。

 受難節の日々、この十字架の主イエスと一つにされていることをしっかり受け止めて、それぞれ遣わされている場において、力を尽くして主にお仕えしてまいりましょう。そこにこそ、わたしたちにとってのまことの喜びがあるのです。

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