2024.3.24 受難の主日
イザヤ書 第50章4~7節
フィリピの信徒への手紙 第2章6~11節
マルコによる福音書 第15章1~15節
                          

「ピラトとイエス」

 本日は、「マルコによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日から受難週に入ってまいります。イースターまでの一週間を受難週として過ごすということが、教会では伝統的に暦として守られてまいりました。イエス・キリストの御苦しみ、そして十字架の死を深く覚えまして、祈りと、悔い改めのときを過ごす一週間です。

 本日皆さんと聴いてまいります最初の1節で、「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。」とあります。イエス・キリストが、そのご生涯において弟子たちと共に、イスラエルの各地を神の教えを宣べ伝えられて、そして同時に奇跡の業を行ってきておられました。ここに出てくる祭司長たち、長老、律法学者たちというのは、ユダヤ教の宗教的な指導者たちです。この宗教的指導者たちは、イエス・キリストを十字架につけるように画策いたしまして、ピラトのもとに連れてきたということなのです。イスラエルは当時ローマ帝国の植民地で、ピラトはイスラエル地方を管轄するローマ帝国の総督でした。当時死刑の判決を下すのはローマ帝国から派遣された総督の権限でした。

 6節に、「祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。」とあります。祭りとは、過越の祭りと言われる祭りのことです。慣例としてその祭りの度に一人の囚人を釈放することになっていました。「そこで、ピラトは、『あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか』と言った。」とあります。その王とは、主イエスのことですが、ポンティオ・ピラトはてっきり、その問いに対して群衆が、イエス・キリスト、その方を釈放してほしいと群衆が答えるのかと思っていたところ、その主イエスを「十字架につけろ」と叫んだのです。ポンティオ・ピラトは大変に意外だったのです。このバラバという男は、ローマ帝国に対する反逆を企てて暴動を起こし、人まで殺してしまう。ポンティオ・ピラトにとっては、このバラバという男こそ、死刑にしなければならない人間だと思っていたのですが、祭司長たちの扇動もあって、主イエスを十字架につけろと、釈放するのはバラバの方であって、死刑にされるべきなのはイエスという男である、そのようにこの群衆は叫んだのです。この群衆は他でもなく一週間前にイエス・キリストがエルサレムに入場されるときに、「ホサナ」と叫んで、イエス・キリストを祝福して、歓迎した人たちでした。しかし、一週間もたたないうちに、手のひらを返したように、こともあろうにイエス・キリストを十字架につけろと叫び立てる。これはどういうことなのでしょうか。この群衆にとって、イエスというお方は、力によってローマ帝国の支配から、解放してくださる政治的な指導者、メシア救い主であるという大きな期待を抱いていたのです。しかし、イエス・キリストのその言動を見ますと、どうもそういうお方ではない。彼らは大きな期待をしていた分、大きな失望にとらわれたということなのです。期待が大きかった分、彼らの失望は大きく、祭司長たちの扇動もありまして、イエス・キリストを十字架につけろと、叫び立てたのです。イエスというお方を自分たちの都合のいいように、自分たちの勝手な欲望、願望を叶えてくださるお方として、見ていたということなのです。  最初はイエス・キリストをメシア、救い主として信じ、自分の都合のよい救い主として、イエスという方をまつり上げ、自分たちの期待通りにならないと思った途端に、手のひらを返したように、その崇拝の対象をおとしめてしまう。こんなはずではなかったと、落胆してしまう。そして、捨て去ってしまう。そのような態度は、決して他人事ではないでしょう。わたしたちがこの場にいたならば、わたしたちもまた、この群衆の人たちと一緒にイエスを「十字架につけろ」と叫んでいたのではないでしょうか。全く罪のないお方を十字架にかけたのは、この無理解のユダヤ人たちだけではなくて、わたしたちもまたこのお方を十字架につけたのではないでしょうか。一方で、この囚人のバラバば、投獄された暗い牢獄の中で、十字架につけられることを覚悟していたのでしょう。大きな恐怖と不安の中で彼は、その刑の執行のときを牢獄の中で待っていたに違いありません。しかし、突然、彼は釈放されます。彼は大変驚いたことでしょう。その理由はまったく彼には理解できなかったことでしょう。十字架の上で死ぬはずだったこの男の代わりに、全く罪のないお方が十字架にかけられる。主イエスの命と、本来であれば死ぬはずであったバラバの死というものとの交換があった、ということなのです。本来であれば、その深い罪のために十字架にかけられるのは、わたしたちであったはずなのに、その身代わりとなって十字架にかけられたのはまったく罪のないイエス・キリストというお方であったのです。

 最後のところにありますが、15節に「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」とあります。この「鞭打ってから」とありますが、この鞭というのは、この鞭に金属のツメがたくさん付けられていて、それで鞭打たれると、叫び声を上げ、気絶するほどの痛みに襲われるのです。わたしたちはとうてい想像できないほどの痛みと苦しみであったのです。十字架につけられる前に、そのようなわたしたちにはとうてい耐えられないような苦しみを受けられて、十字架に引き渡される。この後、聖書ではイエス・キリストが十字架にかけられるという場面になるわけが、十字架にかけられる前に、このような命と死の交換があったということ、それはわたしたちの罪が赦されるためでした。主はわたしたちの身代わりになられて、十字架の上で死なれたのです。決してわたしたちが、ここで芝居か映画か何かを見るときの観客のような気持ちでこの場面を読むことはできないといのです。わたしたちはそのことをしっかりと心に留めて、この受難週のときを悔い改めと祈りをもって、過ごしてまいりたいと思うのです。

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