2024.3.31 イースター礼拝
イザヤ書 第25章6~10節
コロサイの信徒への手紙 第3章1~4節
マルコによる福音書 第16章1~8節
                          

「復活」

 本日は、「マルコによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

   本日はイースター・復活節です。イエス・キリストが十字架の上で死なれ、三日後に復活されたことの意味を深く覚えてお献げする礼拝です。

 もしも、死んだ人が復活する、よみがえる、ということがなかったのならば、そもそもキリスト教の信仰は成り立ちません。イスラエルで今から約二千年前にイエスという人がいて、その人がローマ帝国に対する反逆者として、処刑されて死んだ、ということだけであるならば、わたしたちが世界史の教科書などで知るといったことで終わってしまうのです。イエス・キリストが死なれて、三日目に復活なさったということを信じるからこそキリスト教の信仰は成り立っているのです。

 皆さんと読んでまいります「マルコによる福音書」のイエス・キリストが復活された箇所ですが、最初の1節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリヤ、サロメは、イエスに油を塗りに行くために、香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」とあります。彼女たちの主イエスを何とかちゃんと葬って差し上げたいというその熱意によって、彼女たちはとにもかくにも、主イエスのお墓に向かわなければならないと、急いで墓のところに向かったということなのです。墓に彼女たちが向かって到着したところ、そこで起こったことに彼女たちは非常に驚いたのです。聖書にはその墓の中に入ってみる、「白い長い衣を着た若者が、右手に座っているのが見えた」とあります。まさに、この若者は神の使い、天使だったということです。「婦人たちはひどく驚いた」とあります。この言葉は原典では、本当に驚いた、腰を抜かすほど驚いたという意味です。そして、6節に、その若者は「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」と言ったとあります。この女性たちは、まさか十字架の上で死なれたイエス・キリストが、復活なさるなどということは、これっぽっちも考えていなかったことでしょう。誰もそのことを予想していた人はいなかったはずです。しかし、その墓は空であったのです。本当に腰を抜かすほど、彼女たちは、驚いたのです。8節に「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」とあります。彼女たちはこの出来事をどのように受け止めてよいのかもわからず、とにかく恐ろしさのあまり、そこから逃げ去る他はなかったのです。この若者が、6節で「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」と言ったあります。彼女たちは、十字架につけられて死んだ主イエスを、きちんと葬りたいと思ってやってきました。彼女たちは、イエス・キリストの生前の姿を偲んで、ひたすらにそのイエス・キリストの遺体に取りすがって、心の底まで心から思う存分涙を流して、その死を悲しみたい、と思ったのではないでしょうか。しかし、その方は今や、復活なさったのだ、主は死なれて全く新しい命を与えられて今生きておられる。そのことをあなた方は、しっかりと理解して心に留めて、「弟子たちとペドロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」伝えなさいとその若者、天使は女性たちに命じたということなのです。その若者の言葉を聞いて、婦人たちは墓を出て逃げ去ってしまいます。震え上がり、正気を失って、逃げ去りました。誰にもこのことを言えませんでした。それはあまりにも恐ろしい出来事だったからです。彼女たちは、イエス・キリストが復活される、よみがえるということをまったく予想しませんでした。頭の片隅でもそういうことがあれば、彼女たちは恐ろしくなって、その場を逃げ出すというようなことはしなかったはずです。しかし彼女たちはどうしていいかわからずに逃げ去ってしまう。それほど恐ろしいことだったのです。

 ところで、わたしたちは今こうやって生きていますが、誰一人例外なくいつか必ず死のときを迎えます。死ぬということが起こるのです。しかし、わたしたちが逃れることができない、人間が誰一人、生きるものが誰一人逃れることができない死を打ち破られた方がいらっしゃるということをわたしたちは大きな驚きをもって、受けとめることが何よりも大切なことです。わたしたちが何よりも恐れる死の力を打ち破られた方がいらっしゃる。死からよみがえられたお方がいらっしゃる。死が全ての終わりではないということが、わたしたちに突きつけられています。イエス・キリストというお方を信じることによって、わたしたちは主イエスと一つにされた者たちであり、復活ということがわたしたちの救いにとっていかに大きな出来事であるのかということを真剣に受けとめなければならないのです。

 わたしたちは、これまで歩んできた人生の中で、様々な出来事がありました。楽しいことばかりではありません。人にはとても言えないような、思い出したくないような出来事もある。なんであんなことをしてしまったのかとか、思い出したくもないような出来事があります。しかし、主の復活を信じるわたしたちには、その出来事はすでに主イエスの十字架とともに十字架につけられているのです。わたしたちはそのような過去の呪縛にしばられる必要はないのです。主イエスを信じ、主イエスと一つにされたわたしたちは、過去を十字架につけられたものとしてとらえ、いつまでも自分の過去にこだわることなく、主イエスの復活の命と一つにされ、神の永遠の命に入れられていることを喜んで、前を向いて生きることができます。それが、わたしたちが生きる上での、慰めであり、力であり、希望となるのです。その故に、わたしたちは心からこのイースター、主のご復活をお祝いすることができるのです。そのことを確信して、今日から始まる新しい日々を歩んでまいりましょう。

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