2024.4.7 復活節第2主日礼拝
詩編 第118篇22~29節
ヨハネの手紙一 第5章1~6節
ヨハネによる福音書 第20章24~29節
                          

「見ないで信ぜよ」

 本日は、「ヨハネによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。  20章19節に、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。家の戸に鍵がかかっていたにもかかわらず、集まっていた弟子たちの真ん中に主イエスがそのお姿を現されました。そこで主イエスは手とわき腹お見せになりました。十字架にかけられて、十字架に主の手が釘打たれていたのですから、その傷跡があったはずです。そして、十字架の上でわき腹を刺されたと、聖書に記されてありますから、その傷跡もお見せになったのです。ご自分が幽霊ではないことをお見せになって、弟子たちに確認させるようになさったのです。そのときにその場にいなかった十二弟子の一人で、ディディモと呼ばれるトマスに対して弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と話をしますと、トマスが、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったのです。  そして、最初に主がお姿を現された日から八日後にまた、彼らはトマスも含めて家の中にいたのですが、家の「戸にはみな鍵がかけてあった」にもかかわらず、そこに、主イエスがまた先週と同じように現れてくださり、「来て真ん中に立」たれました。主イエスがそのとき疑り深いそのトマスに対して、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」とおっしゃいます。これは、この前の週にトマス以外の弟子たちが、主イエスにお目にかかったことをトマスに伝えたときにトマスが言ったことと対応しています。そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とトマスに呼びかけられました。その後、トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言ったとあります。これはトマスの信仰の告白と言っていいと思います。  それでは、このトマスはイエス・キリストの手の釘跡に自分の指を差し入れて、あるいはまたわき腹に手を差し入れたから、「わたしの主、わたしの神よ」と答え、信仰の告白をしたのでしょうか。そういうことをしなくても、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言ったのです。そのことをしなくても、彼はイエスというお方を神、わたしの神よと呼び、信仰の告白をしたということなのです。それではなぜ、あれほど主イエスの手の釘跡に指を入れてみなければ信じないと断言していた彼が、そのことをしないで、信仰の告白をするに至ったのでしょうか。  トマス始めとした十二人の弟子たちは、先生である主イエスが捕らえられると、蜘蛛の子を散らすように、一目散に逃げ去ってしまった人たちです。その弟子たちの一人であるトマスが、主イエスがそのように現れてくださって、呼びかけてくださったそのお言葉を聞いて、そのときに、まさにその手の釘跡や、主イエスのわき腹の傷が、自分たちの罪によって主イエスが受けられた傷のだということに改めて気付かされたのです。そして同時に、この傷をつけてしまったということと主イエスが復活なさったということが、そのトマスも身に負っている罪の赦しのためであるということに改めて気づかされたのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という主イエスのお言葉によって、イエス・キリストがこの世に来られて、大きな苦しみを受けられて、復活なさったということ、それは実にわたしたちの、罪深いわたしたちの罪が赦されるためであって、わたしたちの救いのためであったということを信じることがトマスはできたのです。疑り深いトマスが、イエス・キリストこそ救い主だということを信じる者に変えられたということなのです。その後、主イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」とおっしゃいます。トマスは見たから信じたのではありません。主イエスのわき腹に手を入れ、その釘跡に指を差し入れたから信じたのではなくて、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という主イエスのみ言葉に聴いて、トマスは信じる者に変えられたのです。  それでは、わたしたちはどうでしょうか。何かを信じようというときに、何かを確信しようというときに、その証拠が見たいと思うときがあります。そういう何か証拠がなければ、信じられないということをわたしたちはついついつぶやいてしまいます。しかし、本当にわたしたちにとっては、証拠があれば信じることがいつもできるのでしょうか。何か証拠らしきものを見たからといって、わたしたちはいつも信じる者になれるのでしょうか。仮にそういうものを見たからといって、信じられないこともあるのではないでしょうか。見ても信じようとしないこともよくあることではないでしょうか。  わたしたちが信じることができるのは、神様のみ言葉を聴いたときである、ということが、本日の聖書箇所から知ることができます。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という主イエスのみ言葉を聴くことによって、トマスは信じる者に変えられました。わたしたちもまた、み言葉を聴くことによって、信じる者となることができます。使徒パウロは、「ローマの信徒への手紙」の中で、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(10章17節)と述べています。神様のみ言葉には力があります。創世記にありますように、この世界を創造なさるにあたって、神様がまずなさったのは、「光あれ」という言葉によって、光を創ってくださったということです。神様のみ言葉は、それほどに偉大であり、大きな力を持っているのです。万物は、み言葉によって創られたということなのです。み言葉をただ聴いて終わりということではなく、み言葉に聴くことによって、わたしたちに信仰が起こされる。したがって、わたしたちはたびごとに、み言葉に聴く必要があるのです。そうでなければ、わたしたちの信仰は、いつの間にか薄れて行ってしまいます。み言葉には、大きな力があるのです。そのことを確信して、わたしたちも「見ないで信じる者」になれるように、主の導きを求めてひたすらに祈り求めてまいりましょう。   閉じる