2024.4.14 復活節第3主日礼拝
詩編 第4篇2~9節
ヨハネの手紙一 第2章1~6節
ルカによる福音書 第24章35~49節
                          

「主イエスの証人として」

 本日は、「ルカによる福音書」を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。

 わたしたちは、いま復活節のときを過ごしておりますが、主イエスが復活されたということはわたしたちにとってどういう意味があるのかということをしっかりと受けとめることが大切です。

 わたしたちは誰でも例外なく死んでその命がなくなって、この地上の生涯を終えることになります。わたしたちは本当に重い病気になって、今すぐに死ぬということが迫っているわけではありません。頭ではいつか死ぬのであるということはわかっているつもりであっても、それは何か他人事であり、自分の現実とは捉えることができない。できれば、捉えることはしたくない、忘れていようと思っているわけですが、しかし、誰一人として例外なく、その死から免れることはできないのです。

 死を思うとき、誰でも恐れの感情を持ちます。恐れの感情を持たずにいられる人は多分いないでしょう。どんなに科学の粋を集めてもいまのところ死を避けることのできる人はおりません。死はそれほどまでに、わたしたちにとって、あらがいようのない重いことなのです。しかし、聖書では約束されています。わたしたちの地上の生涯は、必ずどこかで終わるけれども、それで全てが終わりではない。わたしたちはいつか死ぬけれども、いつか必ずイエス・キリストがそうであられたように、わたしたちもまた、復活の命が与えられる。その約束を信じるときに、わたしたちの地上の生涯は、信じなかったときと比べて、全く違った意味を持ってくるのです。本日の聖書箇所にあるように、主が目に見える形で復活なさるということをわたしたちはこの聖書箇所で見るときに、わたしたちもまた目に見える姿で復活するのだということが知らされるのです。イエス・キリストの復活のこの有様ということは、わたしたちがいつか必ず復活する、その先駆け、初穂となってくださっているということなのです。死んだら全ては終わりではありません。わたしたち一人一人の地上の生涯がどんなに苦しく、後悔の多い人生であったとしても、わたしたちには復活の命が与えられる。そして、復活の命が与えられ、永遠に生きる希望が与えられている。その道がわたしたちに用意されているということが聖書で約束されております。そのことを信じるということは、わたしたちにとっては大きな希望となるのではないでしょうか。主は、弟子たちやわたしたちにそのような大きな希望を与えられるとともに、わたしたちに使命をお与えになりました。45節から48節をご覧ください。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」」とあります。イエス・キリストが十字架にかけられて、「三日目に死者の中から復活される。」それだけではなくて、そのことによって、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」とあります。その復活の出来事によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国々の人々に宣べ伝えるられるということ、その復活の出来事が罪の赦しのためであり、すなわちそれはわたしたちの救いのためであったということ、それを聞いた人たちは、悔い改めることが必要であるとおっしゃいました。そしてそのことを宣べ伝えよと主はおっしゃるのです。それが、主イエス・キリストを証しするということです。証しするというのは、聖書によく出てきますが、イエスこそ救い主であられるということを証言するということ。救いはそこにしかないということを証言するということです。しかし、それは実際にわたしたちが、まだ神様を信じていていない人たち一人一人に、直接的に神の教えを宣べ伝えるということだけを言うのでしょうか。もちろんそういうことは大切ではありますが、わたしたちはその会う人ごとに、そうすることはなかなかできません。わたしたちがなすべきことは、そのことも大切なことでありますが、わたしたちが神の子として、地の塩、世の光として、この世を生きていく。キリストの香りを放って生きていくということが主を証しすることにつながるのです。それはどういうことなのかと言いますと、神を信じて生きるわたしたちには、復活の命が与えられていて、永遠の命に生きる希望が与えられているということ、それは救いということですが、永遠に生きて働いておられる方が、わたしたちとともにいてくださって、わたしたちの祈りを聴いていてくださる、そのようにわたしたちが信じて、喜びを持って、祈りつつ生きるときに、わたしたちは自分では意識はしないけれども、キリストの香りを放つ者となり、地の塩、世の光としてこの世で生きることができる者とされるのです。それこそが主イエス・キリストの証人として、わたしたちがこの世で生きるということなのです。しかし、それはわたしたちだけの力でできることではありません。それは、聖霊なる神様が力を与えてくださるからこそできることなのです。49節に「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。」とありますが、これはまさに「高いところからの力」すなわち聖霊によることなのです。同じ49節に「高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」とあります。聖霊の力が与えられて、教会が始まったということが使徒言行録に出てまいりますが、都エルサレムで「高いところからの力」すなわち「聖霊」の力に覆われて教会が始まったということなのです。まさに教会に連なるわたしたちがキリストの証人として生きるためには聖霊の力が必要なのです。わたしたちはそのことを確信して、聖霊の力を請い求め、聖霊の力に押し出されて、これからの日々を主の証人として生きることができるように祈り求めてまいりましょう。

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