2025.6.1 主の昇天 主日礼拝 説教要約
詩編 47篇2~10節
使徒言行録 1章1~11節
ルカによる福音書 24章44~53節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
本日の聖書の箇所で、復活なさった主イエスが弟子たちの前で語られます。45節に「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。」とあります。 「聖書を悟る」というのは、これは何か勉強して、聖書のお教えの意味を知るというようなことではありません。イエス・キリストが、ここで語っておられること、わたしたちに悟らせようとしたこと、それはすなわち、46節にある」「メシアは苦しみを受け」云々というところです。そのことが、わたしたちの罪の赦しのためであったということ、そしてそれが、まさに神の救いの御業であったということを悟らせるということが神様の目的だったのです。それは、彼らの心の目を開いてくださって、初めてできることなのだということなのです。 それでは、どのようにして彼らは心の目(信仰の目)を開かせられたのでしょうか。27節に「そしてモーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」とあります。「聖書全体にわたり、ご自分について書かれていること」とは、44節にある「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄」と同じことをおっしゃっています。これはまさに、御言葉の解き明かしということです。主による御言葉の解き明かしによって、わたしたちが聖書で語られていることの意味を悟らせていただける。それは、わたしたちが学校で勉強して、教えを受けるということは違うことです。32節に、「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』」とあります。イエス・キリストがなさる御言葉、聖書の解き明かしよって、彼らの心は燃えていたとあるのです。御言葉の解き明かしによって、心が燃え立たせられる。そして、御言葉の意味を悟らせていただける。もっと言えば、イエスというお方こそ救い主なのだということが、悟らせられる。他の何者でもない、イエス・キリストにこそ救いがある。お金や財産といった、その他諸々の神以外のものではなくて、イエスというお方にこそ救いであると、それが福音ということなのです。イエスというお方にこそわたしたちの救いがある、慰めがあるのです。 イエスというお方こそ救い主であられるということを、わたしたちは聖書によって悟らせられる、悟ることができる。それは、どこにおいて、どこでそういうことが起こるのかというと、まさにこのわたしたちがお献げしている礼拝において、そのことがなされる。礼拝において説教における御言葉の解き明かしによって、わたしたちの心を燃え立たせていただける。それが、悟らせるということです。わたしたちが悟ることはできるということ、わたしたちの心の目が開かれて、イエスこそ救い主であられるということを、わたしたちがしっかりと悟ることができるのです。 50節以下に、「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを付し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」とあります。ベタニアというエルサレムから少し離れたところまで、「彼らを連れて行き、手を上げて祝福された」とあります。この「手を上げる」というこの「手」は、複数形で記されていますので、「両手を上げて」ということです。礼拝における祝祷を思い起こさせられますが、イエス・キリストが彼らのために祝福をなさる。そして祝福しながら彼らを離れて天に上げられる。その姿を見て彼らは、本当に喜んで「神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」いたとあります。この祝福、この「ほめたたえる」という言葉と、50節51節にあります「祝福する」という言葉は、原文では同じ言葉です。元々どういう意味かというと、「良い言葉を語る」という意味があります。神様から、弟子たちにわたしたちに良い言葉を語ってくださる。それが祝福するということです。そして、わたしたちもその祝福に応えて、神様をほめたたえる。ここで同じようにわたしたちが神様を祝福するというと、何か変な言い方になってしまうので、わたしたちは神様に対して、賛美と感謝を献げるという言葉、すなわち「よい言葉」という原文で同じ言葉が使われているのです。まさに礼拝において、わたしたちが体験することではないでしょうか。52節に、「彼らはイエスを伏し拝んだ後」とあります。この「伏し拝む」という言葉は、神様に礼拝するという意味です。イエス・キリストが復活なさって天に上げられる。そのことによって、まさにこの方こそ、神様だということを弟子たちは知ることができたのです。だから、彼らは礼拝する伏し拝むことができた。そして神殿の境内において、神をほめたたえていた。わたしたちは礼拝において、神様をほめたたえ、賛美を献げています。これはまさにわたしたちが、礼拝において成していることなのです。 来週、わたしたちはペンテコステ礼拝をお献げいたします。ペンテコステは、使徒言行録の最初にもありますが、弟子たちが集まって神様に祈りを献げていたところ、聖霊が彼らに降ってそのことによって教会が誕生しました。そのことをわたしたちは覚えて、神様に感謝を献げる、そういう礼拝です。教会が誕生したことを祝う日がペンテコステということですが、聖霊の力が与えられて、この世で初めて教会が始まる。イエスというお方を伏し拝んで、神様に賛美と感謝を献げる。52節に「大喜びで彼らはエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」とあります。わたしたちは、まさに礼拝において、神様からの祝福にあずかり、喜びの生活を始めることができるのです。そのことをわたしたちは感謝して、希望のうちに歩むことができるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる