2025.6.22  聖霊降臨後第2主日礼拝 説教要約
イザヤ書 33章1~6節
ガラテヤの信徒への手紙 3章26~29節
ルカによる福音書 9章18~27節
                          

「イエスは救い主」

 本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の20節にあるように、主イエスは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だというのか」と質問なさいました。弟子の一人であるペトロが、「神からのメシアです」と答えたとあります。メシアというのは旧約聖書で「油注がれた者」という意味です。「救い主」という意味があります。ギリシャ語で言えば、「キリスト」という言葉になります。新共同訳聖書の前に出された口語訳聖書には、「神のキリストです」というふうに訳されていました。「神のキリスト」「神からの救い主」そのようにペトロが答えたということなのです。救い主ということであるならば、ではわたしたちにとって救いとは何かということが、問題になってきます。「苦しいときの神頼み」と言う言葉が日本では昔からあります。わたしたちが本当に苦しいときに、病気になって苦しいときや、何か本当に家庭内の問題だとか、人間関係だとか、そういういろいろな問題があって、苦しいときに助けていただける。それが救いということですが、それではわたしたちが救ってくださいと言って、お祈りをする、献金する、神社であればお賽銭を出す。お布施をたくさん出せば出すほど、そういう状態からいつもすぐに救われるのかというと、必ずしもそうではないことが多い。「神の救い」とはいわゆるご利益宗教のようなものなのでしょうか。ご利益ということが救いということであるならば、イエスというお方が十字架から降りることができたはずです。しかしそうはなさらなかった。そうなさらなかったのは、父なる神様の御旨であったのです。その十字架の苦しみを味わうことが、わたしたちにかわって、その刑罰を受けられる。そのことによって、わたしたちの罪も赦される。そのことが聖書で言う救いの核心ということになります。そのように大きな苦しみを受けられたお方、十字架から降りろと言われても降りられなかったお方、そのお方が救いとは何かということを身をもって示されたのです。「わたしは何者なのか」と「あなたはどう思っているのか」というイエス・キリストから質問されて、あなたは神からのキリスト、救い主であられますとそうペトロは告白いたしましたけれども、わたしたちもまたそのように告白するものですが、ただしかし、わたしたちはそれで終わりなのではありません。キリストを信じるということは、そういうことで終わるのではない。なぜなら、23節以下に「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」」とあります。あなたこそ救い主であられます。そう告白した者は、イエス・キリストに従っていく者になるのです。ついていく者にならなければ、あなたこそ救い主であられますと、告白が本当の実を伴っていくことにはならないのです。告白をしたということは、主イエスを信じる者として生きるということであり、その歩みが自分の十字架を日々背負って、自分を捨て、イエス・キリストに従っていくという歩みなのです。自分の十字架というのはどういうことでしょうか。もちろん、イエス・キリストが背負われた、そこにかかられた十字架をわたしたちは背負うことはできません。それはとてもわたしたちには重すぎて、わたしたちに担いきれるものではない。ここで言われている十字架、重荷といいますのは、イエスをキリストとして告白して、神を信じイエス・キリストを信じて歩むときに、わたしたちはこの世で味わう、苦しみ、重荷ということです。そういう十字架を背負って、キリストに従っていく。ついていく。そのことが本当の意味でわたしたちが救われるということなのです。わたしたちが、日々自分の十字架を背負ってついて行くところに、イエスはキリストである、救い主であるということがわかってくるのです。

 自分の十字架を背負って従うわたしたちに、それでは何が与えられるのかということですけれども、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」とあります。イエスはキリストであると告白し、主イエスを信じ、主イエスに従っていく。日々自分の十字架を追って、従うことによって、わたしたちが神様がさし出してくださる命をいただいて、生きることができるのです。新しい命をいただいて、生きることができる。わたしたちはそのことによって、本当の自分を見いだして、新しく生き始めることができるのです。救いとは、ご利益をいただくことだけではなく、「あなたこそキリスト、救い主です」と、信仰を告白して、主の御跡に従っていくこと。そのことによって、わたしたちに新しい命が与えられていくのです。しかしわたしたちは弱い者たちであるので、なかなかそういう道を歩み通すことは、難しいのですが、しかし今日、わたしたちが聴いてまいりますところの、最初のところをご覧いただきたいのですが、「イエスがひとりで祈っておられたとき」とあります。福音書には所々にひとりで主イエスが祈っておられるという場面が出てまいります。そして、必ずと言っていいほど、それは弟子たちにとって大切なことが起こる前に、主イエスが祈っておられる。この主イエスの祈りによって、ペトロが「あなたこそ神からのメシア・キリストです」と信仰の告白をすることができたと言っていいと思います。執り成しの祈りという言葉がありますけれども、イエス・キリストは、わたしたちのために、いつも神様へ祈っていってくださいます。日々自分の十字架を背負って、生きることを貫くことができないわたしたちであることを、主イエスはよくご存知です。主はわたしたちが、日々自分の十字架を背負って、救いの道を歩むことができるようにいつもわたしたちのために祈っていってくださるのです。そのことをわたしたちはしっかりと心に留め、感謝して、「イエスこそキリストです」との信仰の告白をして、救いの道を歩んでいくことができるものとされたいと思うのです。

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