2025.7.6  教会創立記念・召天者記念礼拝 説教要約
イザヤ書 55章8~11節
ヨハネによる福音書 1章14~18節
                          

「独り子である神」

 本日は、「ヨハネによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあります。神の栄光ということなのですが、神の栄光を見るということは、旧約聖書によるとこれは大変な出来事です。旧約聖書によると、神の栄光を見た者は、死ぬとされています。それほどに恐れ多いことです。罪深いわたしたち人間が、神様のお姿、神様の栄光を見ることはできないのです。しかしここで、ヨハネは「わたしたちはその栄光を見た」と語っています。これはどういうことなのでしょうか。神様のお姿、神様の栄光を見るということは、わたしたち人間にとって死を意味するにもかかわらず、見たとはっきりとここに記しているのです。神の栄光は、その愛する御子イエス・キリストにおいて表されています。愛する御子イエス・キリストは神であられる。その神であるイエス・キリストの歩まれたそのご生涯、特にエルサレムに向かわれてエルサレムで捕らえられ、十字架にかけられ、殺され、そして三日後に復活なさる。そしてさらに四十日後に天に上られる。そのことが神の栄光ということなのです。当時の弟子たちだけではなく、今でも神のご栄光を見ることができるのでしょうか。それは教会で見ることができます。教会があるからこそ、神の御栄光をわたしたちは見ることができます。特に礼拝でそのことが起こります。聖霊の力が働いて信仰の目をもってわたしたちは礼拝において神のご栄光を見ることができるのです。

 それでは、その神様の御栄光を目の当たりにできるその場である、キリストの教会は、ただキリストを信じる人たちが集まれば、そのままでキリストの教会になるのでしょうか。そういうことではありません。そこに聖霊の力が働いていなければ、教会とは言えないのです。そしてさらに言うならば、そこにイエス・キリストを証しすること、イエスというお方こそ、救い主であられるということを証しする者がいなければ、教会とはならないのです。「証しする」ということを、よく教会で申します。教派によっては、証しというのは、自分がどれだけ、神様によって救われてきたのかということの体験を、皆に語って聴かせるということが証し、という意味で言われています。もちろん、そういうことも含まれるのですが、さらに言えば、それは、イエスというお方が救い主であられるということを、一人でも多くの人たちに伝えるということです。それは伝道という意味でもあります。しかしただ、証しの一環として、いついつ、伝道集会がありますから、ぜひ来てくださいということを伝えることも大切ですが、それだけではなくて、わたしたちがキリストを信じる者として生きること、自分がクリスチャンである、キリストを信じている者であるということを、家族や自分の友人・知人に公にしてる場合は特にそうですが、わたしたちの生き方、わたしたちの言動というものが、周りの人たちに示されるということなのです。直接的にわたしたちが、教会に来てくださいということを、伝える、勧誘するだけではなくて、わたしたちの生き方そのものが、地の塩、世の光として、わたしたちがキリストの香りを放っているかどうか、光であるキリストの光を反射して、わたしたちが世の光として生きているかどうかということが、見られているということなのです。はっきりとわたしたちが、周りの人たちにどうぞ礼拝においでください、教会に来てくださいということを言葉で言うだけではなくて、神を信じて生きるわたしたちの生き方そのものをこの世に、地域社会の人々に、家族に示していく。そのこともまた証しであるということができるのです。先ほどキリストの教会はただ人が集まれば、それで即教会になるのではないと申し上げました。そこにキリストを証しする群れがいなければ、キリストの体のなる教会とは言えないのです。わたしたちはそのことをしっかりと心に留めなければなりません。神を信じて生きる者の群れに聖霊の力が注がれ、わたしたちがキリストを証しすることによってこそ、教会は建つことができるのです。キリストの体なる教会を建てていくために、この地においても、百年以上前から、わたしたちの信仰の先輩たちが、祈りつつ懸命に努力してまいりました。そのことをわたしたちは受け継いで今に至っているのです。

 ところで、教会に来る人が最近減っている、教勢が伸びないとか、日曜学校は開店休業の状態であるということが、各地の教会で言われています。当教会も例外ではありません。しかしわたしたちは、この教会というものが、何か他のこの世の団体、同好会とか、そういうものであれば、人が減ったとか増えたということに一喜一憂して、それがメインの目的になってしまうのですが、しかし、教会というものはわたしたちのものではないのです。聖書が語っておりますように、キリストの体である教会ですし、神の教会です。わたしたちのものではないのです。そうは言っても、「だからわたしたちには何もしなくていい」ということではありません。キリストの体である教会、神の教会のために神から委ねられた務めを、結果はどうあれ、精一杯その奉仕をしていくのです。どんなに小さな群れであっても、キリストを一生懸命に証ししていくのです。神様のご栄光を仰ぎ、神様のお姿を仰いで、数が増えようが減ろうが、この教会は神の教会なのだということを、わたしたちはしっかりと心に留めて、数の多い少ないに振り回されることなく、希望をもって「イエスはキリストである」と、「救い主である」と証しして、歩んでいくことこそが、求められているのです。また、教会はそれぞれの歴史を持っています。過去にあったいろいろなこと受けとめつつ、わたしたちは今を見つめ、そして将来をしっかりと展望して、この地域で神のご栄光をしっかりと証しする群れとなれるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

    閉じる