2025.7.20  聖霊降臨後第6主日礼拝 説教要約
創世記 18章1~10節
コロサイの信徒への手紙 1章24~29節
ルカによる福音書  10章38~42節
                          

「ただ一つ必要なこと」

本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日ご一緒に聴いてまいります「ルカによる福音書」10章38節以下には、マルタとマリアという姉妹が登場いたします。

 ここに登場するマルタとマリアという信仰を持つ姉妹の間には、ある違いが生じておりました。39節にあるように、マリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」のです。それに対してマルタは40節にあるように「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」のです。マルタとマリアの話のポイントは、この対照的な姿にあります。マルタとマリアの対照的な姿からわたしたちは何を読み取ることができるのでしょうか。

 マルタが主イエスと弟子たちを家に迎え入れて、「いろいろのもてなし」をしていたというのは、神の国の福音を宣べ伝えている主イエスと弟子たちに仕え、その歩みを支えるという信仰の行為と言ってよいでしょう。マルタは決して、自分の料理の腕前を披露しようとしているわけではないし、ちゃんともてなさないと恥をかくと思っているのでもないのです。彼女がせわしく立ち働いているのは信仰によってです。マルタの姿は、信仰者が主イエスに仕えている姿なのです。そのことは、「もてなし」という言葉からも分かります。これは原文においては「ディアコニア」という言葉です。「奉仕」という意味です。

 マルタがしているのはこのディアコニア、つまり主イエスに従う信仰者にとって大切な信仰の業としての奉仕なのです。ですから、このマルタとマリアの姿は、自分はどちらのタイプだとか、どちらの方が自分の好みに合うなどというふうに読むべきものではありません。これはどちらも、主イエスに従い仕えていく信仰者が大切にすべきあり方なのです。

 しかし、このどちらも大切な信仰のあり方の間で問題が生じています。マルタがマリアのことで主イエスに文句を言ったのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタは、主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアに対して、「何も手伝わず、私だけにもてなしを、つまりディアコニアを押し付けている」という不満を抱いたのです。このマルタに対して主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。わたしたちはこのお言葉を読む時、これはマルタには気の毒な、酷な言葉ではないか、と思うのではないでしょうか。マルタは今見てきたように、主イエスを迎え入れ、いっしょうけんめい奉仕しているのです。信仰の業を頑張ってしているのです。しかし同じ主イエスを信じ従っているはずの妹が手伝ってくれない、自分だけが忙しく立ち働いている、という現実の中で心を乱しているのです。そのマルタに対して、これでは「あなたのしている奉仕は本当に必要なことではない。しなくてもいいことだ。マリアのように私の足もとに座って話に聞き入ることの方が大事だ」と言っていることになる。これでは身も蓋もないではないか、と感じるのです。しかし、主イエスがマルタに望んでおられるのは、彼女がそのディアコニアを、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなくて、本当に喜んで、自発的にしていってほしい、ということです。そして、そうなるために必要なただ一つのことを主イエスは教えてくださっているのです。それが、マリアのように、主イエスの足もとに座って、そのみ言葉に聞き入ることです。

 そして、そのみ言葉を本当に聞いた者は、先週の「善いサマリア人」の話の最後のところにあったように、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの励まし、勧めを受けるのです。主イエスの愛の業にならう奉仕、ディアコニアは、この主イエスの励ましの中でこそなされていきます。主イエスによって告げられるみ言葉に聞き入り、それを本当に受け止めることによってこそ、わたしたちは本当に喜んで、自発的に、奉仕に生きることができるのです。この「主イエスのみ言葉に聞き入る」ことを失ってしまうと、わたしたちの奉仕は自己実現や自己主張のための業になります。そこには、自分の奉仕への評価や見返りを求める思いが生じます。そうなったらもはや本当に喜んで奉仕しているとは言えません。そして自分の奉仕を本当に喜んでいないところには、自分はこれだけしているのにあの人はなんだ、と人を非難する思いが生じてくるのです。わたしたちがそこから抜け出すために立ち戻るべきところは、主イエスの足もとに座ってその恵みのみ言葉に聞き入ることなのです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのお言葉は、そのことをマルタに、そしてわたしたちに教えています。

 つまりマルタのしている奉仕、ディアコニアが本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、マリアのあり方が求められるべきなのです。主イエスはマルタの信仰に基づく奉仕が本当に生かされることを願っておられます。マルタを愛しておられるのです。それゆえに、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃったのです。それはマリアをほめるための言葉ではなくて、マルタが喜んで奉仕に生きるために本当に必要なことを教えようとするみ言葉なのです。そして、先週の箇所からのつながりで考えるならば、主イエスの足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアには、「行って、あなたも同じようにしなさい」という励ましが、勧めが与えられていくのです。そのようにしてマルタもマリアも共に、そしてわたしたちも主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自発的に献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者とされていくのです。

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