2025.7.27 聖霊降臨後第7主日礼拝 説教要約
創世記 18章20~32節
コロサイの信徒への手紙 2章12~14節
ルカによる福音書 11章1~13節
本日は、「ルカによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。
本日の聖書の箇所で、主イエスは「主の祈り」を弟子たちにお教えになった後で、たとえ話をお語りになりました。夜中に友だちのところに行って、『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』というお願いをした。夜中にこういうお願いをしに行くというのは、とても厚かましいことであると思われますが、当時は旅人に対して、依頼されたら何か施しをするということが当然のことでした。なぜなら、イスラエルの地は、不毛の地が多く、食堂とか各地にありませんでした。困ったらお互いに助け合うというのが常識でした。イスラエルの国は暑いので、日中は旅をせずに夕方から旅をスタートするということがよくあったそうです。ですから夜中にそういう困った状況になるということは、十分にあり得ることでした。しかしそれにしても夜中に、『パンを三つ貸してください』ということをお願いしに行くというのは、かなり無理なお願いであるようには思えます。そういう友達のお願いに対して、『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』そのお友達は断ったのです。しかし主イエスは「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」とおっしゃる。しつこく求めなさいと、主イエスはおっしゃるのです。その後、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」という教えを述べられるのです。キリスト教に限らず、祈りというものがどの宗教でもほぼ必ずと言っていいほど、その宗教的行為として、あるのではないでしょうか。かく言うわたしも、聖書の神を信じる前は、日本人の大半の人たちと同じように、大晦日や元日に神社にお参りして願い事をしていました。これも祈りということには違いはなかったのですが、その祈りが必ず聞かれるのだという、そういう神様への信頼に基づいて、祈っていたかというと、はなはだ心もとないわけです。もしかしたらきいてくれるかもしれないという、何らかの淡い期待があって、手を合わせていたに過ぎなかったのです。祈りというときに、わたしたちは祈る対象のお方に対する信頼ということが、とても大切なことではないかと思われます。祈りにおいて熱心さということが求められるのではないでしょうか。主イエスはここで、祈る相手である神様に対する信頼に基づいて祈るということが大切なのだとおっしゃろうとしているのです。 主なる神様は、わたしたちが何を求めているかということはよくご存知です。そうであるならば、わたしたちが何もわざわざ神様に祈り求めなくても、神様はわたしたちの祈りを実現してくださるのではないか、という疑問も湧いてきます。神様はわたしたちがどんなに罪深い者であっても恵みによってもわたしたちに様々なことをしてくださるお方です。しかし、主イエスはここで、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」とあえて命令しておられるのです。天の父なる神様が、わたしたちが何を祈り求めているか、もちろんご存知ですけれども、あえてそのように求めなさい、探しなさい。門をたたきなさいとわたしたちに求めておられるのはなぜなのでしょうか。父と子、母と子もそうですけれども、親と子との間の愛情、信頼関係というのは、もちろん親から子への愛情ということがありますが、親は、子供が手放しで自分たちにいろいろなことを求めるということを喜びといたします。もちろん親は子供にとって何が大切かということは、よく知っているのですけれども、子供が親への信頼関係に基づいて、何かを求める、そういうお互いの愛情ということが、家族の関係において、大切なことではないでしょうか。そのことによって、お互いの愛情が深まっていくのです。天の父なる神様も、わたしたちが何もしないで口を開けて神様がくださるのをただ待っているということではなくて、わたしたちの方から神様に熱心にしつように願い求めることを欲しておられ、そのことを喜んでいてくださるのです。このことと関連して、旧約聖書の創世記の32章に、ヤコブが神様と相撲を取るという場面があります。神様と相撲を取って、神様がもう降参だ、勘弁してくれというところまで、もう本当にヤコブは神様にむしゃぶりついていったのです。神様がヤコブについに降参したというユーモラスな話があります。神はわたしたちが、ただじっと黙って口を開けて待っているというようなことではなくて、わたしたちの方から熱心に神様にむしゃぶりつくようにして、神様と格闘するようにして、わたしたちが神様に祈り求めることを願っておられ、喜んでいてくださるのです。もちろん祈り、願いはすぐにわたしたちが思った通りには実現しないかもしれません。親は子供にとってもっともよいと思われる時期に、もっともよいと思われる形で祈りをかなえてくれます。神様はわたしたちの祈りを聴いていてくださるのです。そういう信頼関係に基づいて、わたしたちが祈りを献げる。それがわたしたちの信仰ということではないでしょうか。わたしたちの祈り願いが必ず聴いていただけるという目に見える確証は一切何もないのですけれども、天の父なる神様は、わたしたちの救いのために、イエス・キリストの命を差し出してくださったお方なのです。そういうお方が、わたしたちの祈りを聴いてくださらないはずはないのです。わたしたちはそのことに信頼して、どんなことでも神様にひたすら祈り求める者になれるように、そういう者に変えていただけるようにひたすらに祈り求めてまいりましょう。 閉じる